日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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プルーストは本当に、いい小説・おもしろい小説には「こんなにすごい文章はない!」という箇所が一冊のなかに3、4箇所でてくるが、『失われた時を求めて』では、そんな文章がひたすら続いていく。それも岩波文庫で14巻の大長篇でだ!

恋のことをずっと書いていた、第10巻の前半で、読書を中断していた。このブログでも書いてきたが、アルベルチーヌという恋人との恋愛を、プルーストがどこまでも透徹に書いてくれていた。彼女にいよいよ興味を失って、今晩別れを告げようとしていた、それまでさんざん苦しい恋愛をしてきた相手の彼女がまさにその晩、鉄道のなかで発した一言から、嫉妬が再燃し、やはり全然好きでない、と前置きしながらもパリの自分の実家に彼女を強引に同居させてしまう。さらに外出中は彼女の友人に彼女の行動を監視させ、好きでなくなったアルベルチーヌを完全なわがものとしようとする、そんな生活が第10巻で描かれる。これを私は、なにゆえそんなことになるのか、電車のなかで読んでいる私のその現実の日々で、同じような、苦しい恋心とその変化、プルーストとアルベルチーヌのようにもいかない無力さに苛まれて、引き裂かれるようで本を置いて遠ざけていた。

今はどんな本も読めなくて、最近とくにいい小説も、好きな著者も、そしてそれを読んでいる私も、ただただ偽りなく何の構えもなく書いてゆく、という現在の関心に違いないがそれに倦んできていて、倦んでることもよくわかってなかった。『失われた時を求めて』は、これだけは書かないわけにはいかない、もっと書かなければ、これについて…と、著者にとって、かけがえのない、決して忘れて失われてしまいたくない過去、またそれにともなう考察が書かれているのだ。その大切さ、それは執着なのだが、そして前に述べたような、(現代の流行の?)こだわらない書き方、生活とともにあり、全然消えていっていい文章、日常から切り離されない文筆活動とはそれは反対なのだが、本当は反対じゃないかも知れない。でもひとつの対象に固執する、愛情は、大切に思うことから端を発している。

「かくして、最も幼い歳月にはじまる私のあらゆる過去が、さらにはその歳月のかなたのわが親族の過去が、アルベルチーヌにたいする私の不純な恋心に、子供のようでもあり母親のようでもある優しい愛情を交えていた。人はある時期が到来すると、はるか遠方から自分のまわりに集まってくる親族をひとり残らず受け入れなければならないのである」

 

『オーバーヒート』はその切実な無力さがいい。何かが失われていく、手の届かなさ、もっと無防備になると小島信夫カフカの〈書く行為における無力さ=書く受動〉、ホント一人でやるとされる文章を書く行為に、受動、受け身という態度があることが広がりを感じさせ肩がラクになる。書いた文章に翻弄される、カフカは間違いなくこういうことをしている。プルーストはそこに失われた過去が存在する、存在させるために書くから、内容が詰まっている。愛しさが痛々しいほど、センチメンタルでなくそういった表象を剥がしに剥がしていった実存や物質のように並んでいる。いま『失われた時を求めて』を一ページ一ページ噛みしめながら読んでいる人はどれくらいいるのだろう。

公共性や平等の追求が加速しまくっているが、このままゆくと人間の心理まで(すでに)コントロールされ、計画され、無意識という領域が消滅した、——この辺は千葉雅也さんが書いていることですが——脱個人化された人々をつくる。それはこうした文学の古典をもはや味わえないのでは。そう考えると、再三書いてきた「幻影を追って、幻影だからこそそれに追いつくことは決してない」ことが、なんだかとても素敵な人間らしいことに見えてくる。こうして考えは極限までいくとまた正反対に見えてくる。その繰り返しなのだろうか。でも、この幻影問題はもう少し見つめて思考していきたい。ま、バランスということはある。あとは、自尊心の捉え直し、であるか。

 

上に書いた「ただただ偽りなく何の構えもなく書いてゆく」ということ。それに対して「ひとつの対象に固執する、愛情は、大切に思うことから端を発している」こと。

理想を持たないこと、受け身の自由さみたいなことを実生活のなかで私はこの頃、考えていた気がするが、それだけじゃ全然、なんというか、それでいいのか、と思われます。

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↑ゆらぎ、という若いシューゲイザーバンド。

https://m.youtube.com/watch?v=xU9Hf27YD4A&feature=youtu.be

この動画はインスピレーションがきた。