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114. プルースト『失われた時を求めて』ソドムとゴモラⅡ

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「それは、若い娘という寓意的で宿命的な形をとって私の面前にあらわれた、ある精神状態、ある生存の未来なのだ。」

出勤の電車に乗って座席に座りながら『失われた時を求めて』を読んでいたらこうした一節が出てきて、私は思わずその文庫本を閉じる。主人公の「私」が海辺のリゾートで夏を過ごしている。ここで昨年出会ったバラ色の顔をした少女アルベルチーヌと恋人関係で、毎日のように会って過ごしている。ポロ帽を目深に被った、海とスポーツを愛する娘、アルベルチーヌ。当時(1899年頃)まだ珍しかった自動車を毎晩のように使って、アルベルチーヌを連れ戻してくる。メーヌヴィルの市場のアーケードの前で私を待っているはずであった。すると白地に青の水玉模様のブラウスを着た本人が、若い娘というよりは若い動物のように軽やかにぴょんと車内の私のそばに飛び乗ってくるのが目に入る。そして、これまた雌犬のように、すぐさま私を愛撫してやめようとしない。日がとっぷり暮れて、ホテルの支配人が私に言ったはんてん(「まんてん」の支配人の言い間違い)の星空になると、私たちはシャンパン一本たずさえて森のなかを散策するのでなければ、薄明かりに照らされた堤防をいまだに散歩している人たちもそばの暗い砂浜にはなにも見えないので、その人たちの目など意に介さず、砂浜の窪みに身を横たえる。アルベルチーヌのしなやかな身体には、かつて水平線を背景に通りすぎてゆくすがたをはじめて目にした少女たちのいかにも海とスポーツを愛する娘らしい魅力が余すところなく息づいていて、私はその同じ身体を、うち震える光に区切られてじっと動かない海のそばで、同じ一枚の膝かけにくるまれて、わが身にぴったり引き寄せる。そして海が息をひそめ、潮の引きも停止したかと思われるほど長いあいだ音が聞こえないときでも、海がようやく私たちの足元にまでやって来て、遅ればせながら待望のつぶやきを漏らすときでも、私たちは飽きもせず海の声に耳を傾けつつ変わらぬ歓びを味わった。私はようやくアルベルチーヌをパルヴィルまで送ってゆく。住まいの前に着くと、人目を怖れてキスを中断しなければならない。ところがアルベルチーヌは、まだ寝たくないと言って、私といっしょにバルベックまで舞い戻ってくる。そのバルベックから、もうこれが最後と、またしても相手をパルヴィルまで送ってゆく。自動車が使われだした初期の運転手たちは、何時に寝るはめになっても文句を言わない人たちであった。実際、私がようやくバルベックへ帰ってくるのは最初の朝霧の降りるころで、今度こそひとりだが、それでも依然としてわが恋人がそばにいる気分で、満腹するほどに詰め込んだキスの蓄えはとうてい底をつきそうにない。私の机の上には、電報なり葉書なりが届いている。これもアルベルチーヌからのものだ! きっとケットオルムで、私がひとり自動車で出かけたあと、私のことを思っていると知らせるために書いたのだ。私はそれを読みかえしながらベッドにはいる。そして閉じたカーテンの上部にひときわ明るい日の光が射しているのに目をとめ、ひと晩じゅう抱き合ってすごしたのだから私たちは愛し合っているにちがいないと考える。

これを読んで、色んなことを思い出したり思いめぐらし、ページを角を折って、電車に乗って私は出勤している。