日々と文学

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147 沼田真佑「廃屋の眺め」


新宿から帰るとき、新宿三丁目から副都心線に乗ろうとすると、ホームにすごい人だかりができていて、アナウンスでダイヤが大きく乱れているとのこと。東急線で発生した車両点検が影響らしい。夕方で、帰宅ラッシュの時間帯に差し掛かっていた。

渋谷まで行ければいいから、私は来た道を戻り、新宿通りの真下の地下通路を通ってJR新宿駅へ。山手線で渋谷へ。それから田園都市線は動いててホッとし、そのまま自宅駅へ。ミスドでドーナツを二つ買って、帰った。

ミスド食べて、カレー食べて沼田真佑『影裏』文春文庫所収の「廃屋の眺め」を読んでいたらこれぞ小説の面白さ!と思いだす。

語り手の、社会における身の置き方の微妙さが好きだ。50歳で非正規雇用ばかりを転々し、実家暮らし。でもそれを物語化しない。恥ずかしそうにたまに言い及ぶが、核心はそこじゃなく、そういう人の見ている世界または世界との関わり。そして、その語り手による周りの結婚ラッシュの話から小説がはじまる、この意表をつくところ。

「わたしはたいていは新郎か新婦のどちらかの、元職場の元先輩という、消え消えなラインをよすがに招待される身の上だから、式場では通例一人で、ロビーの窓辺に突っ立っていたり隅のソファに腰かけたりして、傍目にはさだめし陰気な男に映るだろうが、さにあらず。そのじつ非日常の雰囲気に浮かれ、胸躍らせているのである」

芥川賞受賞の「影裏」も、なんの説明もなく後半で30歳くらいの男の主人公が、元カレに会うという場面があり、え?え?となる。文庫所収「陶片」では、姉の前夫はスコポフィリアで、と述べられたり、こうしたマイノリティが自然に語られる、それでいて怪奇とか幻想とかでなく、視覚的な描写の卓越した瑞々しい小説でもある。

早く新刊が読んでみたい。

で、昨日の新宿ディスコユニオンが呼び水となり、今日も買い物。蔦屋書店で太宰治『グッド・バイ』。にわかに日本の近代文学に触手が。太宰は関心なかったが、バストリオの今野裕一郎さんがラジオで「グッド・バイ」を語っていて、自分こそ偏見たっぷりだったと思って。あとは、この間ブログでも述べたが、磯崎憲一郎金井美恵子中原昌也の鼎談の動画がよかったのだ。そこで文庫本についてのトークだったが、述べられていた宇野浩二「蔵の中」など読みたくなったが、床屋終わりで日が暮れてて、渋谷に出るのは断念。大江健三郎、あとは庄野潤三を今度買ってみたい!

と思いつつ、喫茶店で読書。相変わらず数ページしか進まぬが、家以外で、金使って油売っていなければ、いいことも起こらない、と。

寂聴さんが亡くなった。寂聴さんのその名は「森羅万象から出る音を、心をしずめて聴く」という意味の「出離者は寂なるか梵音を聴く」の言葉にちなんでいる、とのこと。これは前回だか前々回だかで書いた、保坂さんトークで言われた、ささやかさを感じること。

どんなささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなれば働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ


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