日々と文学

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149 ささやかさと真実


私が高校生のころ、と言っても三年の夏まではほとんど野球部のみでいっぱいだったから、引退したそれ以降だと思うが、急激に芸術に引き寄せられていく。今でも仕事の時は嵌めているセイコーの腕時計を、野球部引退祝いみたいなかたちで父親にその時買ってもらい、それを嵌めて、町田駅辺りを放浪していた。

中島らもさんのエッセイで、たまには公園で野宿するのがよい、とあり、それもしたりした。公園で谷崎潤一郎痴人の愛』を読んでいたら、カリスマホームレスと自称する、40歳前後の大きなサングラスをかけたスキニーボトムの男が声をかけてきてベンチの隣に座ってきた。

タバコをせがまれ、渡した。それから何度か会うようになった。そこである夜、小さい公園を囲むベンチのひとつに、カリスマの顔見知りのこれも40前後に見えたが、男が座っていた。夜闇の中、外灯の明かりを頼りに、顔にすごい近さで本を読んでいる。カリスマが言うに、アイツもホームレスで、聖書を読んでるんだ、とのこと。

その姿をよく覚えている。それから思い出すたび、現実に生きているのに現実を見ないようにしている悲しい人だ、なんて思っていたが、ふと、本当に聖書にすがっていたのではないか、と思った。人にどう思われようと、キリスト者を実践せずにはいられなかった、そういう切実さだったのかも知れない、と。

それはわからないし、どっちでもあまり変わらないのかも知れないが、イエスは本当にいて、イエスほどのカリスマじゃないが、共鳴する人たちは、それこそキリスト教に関係なく世界にいて、アウグスティヌスのような人や、まったく名が残らないどころか、誰にも知られない人もいる、そっちの方が多くいて、聖書や先人の教えなどを頼りに、なにかを社会通念や常識より強く、求めずには、信じずにはいられなかった。それがかろうじて、もしかしたらこの世界の目に見えるもの、現在の社会のあり方の、その外の可能性の火を消していないのかも知れない。

実家の、いつも母の寝ている、もと弟の部屋だったはずのベッドより。

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どんなささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなれば働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ