日々と文学

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150 イスラエル博物館所蔵展


大手町へ。東京駅まで歩き、先輩と合流。

三菱一号館美術館イスラエル博物館所蔵展があり、そこまで歩く。ステキな通りで、ウェディングドレスの女性とタキシードの男性が、カメラマンに写真撮影されていた。とても楽しそう。街はすこしずつ、クリスマス装飾、ムードが漂い始めている。風もなく、スッキリした秋の天気で、空気が爽やかでサンポに気持ちよい。イチョウが黄葉している。

イスラエル博物館所蔵展は印象派からポスト印象派までかなりあった。

私はセザンヌが好きである。

コローが最初にあり、それは先輩が好きな画家だ。子供の頃の記憶の風景のような、写実的だがなぜそれが子供目線に遡るようなのかは、わからない。

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あと、ゴーギャンが私は好きだ。ゴッホも少しあり、こんな爽やかな作品も。

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モネやルノワールなどもけっこうあった。印象派を代表する画家の作品たちである。見ている人たちもキレイだ、とか、睡蓮なら崇高な感じだ、とかピサロなどもその光景から人が美しいと感じ、たとえば今ならスマホで写真を撮るならそこを強調したいと思う、光に輝く自然や、秋の紅葉の色のビビッドさ、自然の色彩のくっきりした響き合いなど、そこをもろに絵にしてくれている。見やすく、点描や細かなタッチが画面全体の風景をなすのもたとえば光景は光によってできている、とか、木も人も背景の空も草間彌生の水玉じゃないけどみんな同じ原子からできているから境界はなく、点描で混ざり合うとか、そんなこともわかりやすい。

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ピサロの『豊作』

また、対象に向かうなら画家の主観は出さないことというもっともな話もある。が、印象派はやっぱりそこまで面白くない。いや、それがあったから絵画はどんどん面白くなった、その転機とすれば非常に面白いが、これは良くできた、科学などとマッチした、なにかノリに乗っている。そこから、より独自の表現を見出したり、打ち破ったりした後期印象派とかポスト印象派と呼ばれるセザンヌゴッホゴーギャンなどのノリの悪さ、もはや理論とか言葉が付いていかない、糸の切れた凧の行く末、でもそこからたしかに芸術はよりイデオロギーとか正統性みたいなものから自由になったのでは。

でも私もこんなわかったようなことを言っていても面白くもない。私が社会性が希薄なのは、前提とか昨日までの知識とか考えとかを、ゼロにすることを求めているからだろうか。夕方から雨が降ってきて、頭が重くぐったりしています。