日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

146 スウィート・シング


一人の生、ひとつひとつの命は海面に落ちる雨粒である。これを昨日、保坂さんが何度か繰り返し言っていて、それも、これ以上説明せよと言われてもできないばかりが、だからどうだと自分でもそういうのはない、と言った。ただそのイメージだけがあって、ならばそこから考えをはじめなければならぬ、と。

今日は仕事で久しぶりに一日現場に立った。晴れてて暖かい日だった。素晴らしい陽気、そんなことはどうでもいいが。家に帰ってヤキソバを作った。これを食い、暗ーい部屋でテレビを映しながら、ユーチューブで金井美恵子磯崎憲一郎中原昌也の鼎談を見たら、見事にかっこいい、面白い。ずっと流して聴きながら、小島信夫『私の作家遍歴Ⅲ』。お三方の話を聞いていると、やっぱりまったく自分は文学読んでないと思った。その鼎談の話からの『私の作家遍歴』は繋がってる感じがしていい。今はその140ページくらいだが、いったい小島信夫はここまで書きながら何冊の本を読んだのだろう。保坂さんが小島信夫の思考を「太い」と表現していたと思うが、重なり合う作品が、同時代の古典が世界のあちこちで、小島信夫によって抽出され、読み込まれ、たまたま本のしおりにしていた絵葉書の画家や、あれこれがもつれ合って矛盾の虹を掛けているようだ。

今度はシャミッソーとかいうフランス作家の『影を売った男』の引用やら話になっていて、なんのことやら、と思いつつも、「いったい「影」とは、二つの国にまたがって生涯を送らねばならなかったシャミッソーの何に当たるのだろうか」なんて文章でああそうだったのだ、と論旨の方向性を思い直したりもする。

明日早いから、もう寝よう。


また次の休日に、土曜の保坂さんトークで「仏教は愛着を否定している」とたしか言っていた、とジョギングしていて思い出し、大好きなサミットのメロンパンを買って部屋に戻ると、MacBookを開いてもう一度再生した。愛猫が死んだあと「ブッダのことば」を読んでいたらはじめの方で悪魔がブッダにささやく、あの女神に会えば深く愛することができる(曖昧な覚え)ぞ、と。ところがブッダは愛することは別れのつらさになるから、愛さないと答える、それが保坂さんは嫌なやつだなぁと感じたという。なるほど。愛着(あいじゃく)、執着(しゅうじゃく)、愛することは仏教では否定されているのだと。この言いようは保坂さんらしい。というか、私は今まさに同じことを考えていたと思う。それをこの一年間の恋で、考えたことなのだと思った。その自然な気持ちを見ないようにするのは、なんのためだ?という。

新宿に行き、シネマカリテで『スウィート・シング』という映画を観た。それからイセタンでワイシャツを覗き、紀伊國屋に向かうところで新装されてから行っていなかった新宿通りのディスクユニオンに。中に入ると、音楽好きな人たちが夢中でCDを探していて、壁一面CDやレコード。棚の上の壁面には名盤ジャケットが並んでいて、こんな素晴らしい空間!とにわかにハッピーな気持ちになった。昔聴いていて、ちょっと前に思い出して聴きたくなったがもう売ってしまって無かった Dub TAyloR『LuMiERE』を見つけた。これと、Arthur Russellの未完作品デモ音源集を購入。Arthurはほとんど未完とか未発表ばかりで、それがたくさんあり、近年でもリリースがある。ホントに大好きな音楽です。

紀伊國屋に行き、ホーソーン『緋文字』と沼田真佑『影裏』を買った。暖かい日だ。


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