日々と文学

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136. プルーストと「うた」

文學界10月号がプルースト失われた時を求めて』の特集をやっている。「プルーストを読む日々」なるタイトルで、「史上もっともハードルが低いプルースト特集が始まります!」とのこと。
とはいえ、文學界だ。『失われた時を求めて』を通読した事のない14人の作家が、リレー形式で岩波文庫版の14冊をそれぞれ読んでいく。それよりもこの特集のきっかけは何か?岩波文庫吉川一義氏による新訳が完結したのは二年前だ。この特集のタイトルの元ともなっている『プルーストを読む生活』という本を、保坂和志が読んでいて、こんど著者と文學界で対談する、と以前ツイッターに書いてあった。それを見ようと発売日に文學界を書店で覗いたのだった。『プルーストを読む生活』の著者柿内正午さんは会社員で、プルーストを読みながら書いた日記が750ページの本になった、実は私はそれを渋谷のジュンク堂で、保坂和志ツイッターで言うよりだいぶ前、たぶん刊行直後くらいに手に取っていて、すごく覚えていた。

プルーストは悪文家だ。あまりに読みづらいためか、岩波文庫版の翻訳を担当された吉川氏は、この文章を二分割している」
悪文家っていうのがいい。上記引用は第4巻のリレーパートで藤原無雨という作家が書いていて、その悪文として引用される文章(光文社古典新訳文庫の訳文)が、ほんとに原稿用紙一枚(400字)以上に渡って句点なしで、止まらない文の途中をカッコやダーシで長々と説明し、という改めてみると冗談みたいな文章だ。これがこのまま脱稿されていることが、プルーストの丁寧で几帳面そうな執筆姿を、荒々しく、コントロールするというより乗りこなすのに精一杯という荒波のイメージで押し流す。
最終第14巻には次のような文があると、14巻を担当した古谷田奈月さんは引用する。
「だからわれわれは、自分が犯した過ちも何年か経てば地中に埋もれ、目に見えない塵となり、そのうえに平穏な自然の笑みが晴れやかに花咲くであろうことを知れば、どんなに大きな屈辱でもたやすく甘受できるだろう」
こうした、その中にあることしかできない時間というもの、その覆いを揺さぶるような、ピュッとその雲の上に出れば曇天も快晴のもとにあることがわかるような、超越的な視点は、死を思わせるが、こんなに恐ろしくもありスッと重力から解放させるようなこうした文は、あまりに長大で、また長い時間について書くこの『失われた時を求めて』に度々現れる。作家が執筆していくなかで、具体的な人物たちの出来事を綿密に書いてゆくなかで到来した、スッとなる「時間の外側」に突きでるような感覚を、100年経ってこの小説を読み、その文章へ至る我々が追体験する。
そんな文章でよく覚えている箇所がある。スワンが恋焦がれるオデットと、ひたすら苦しく翻弄され続け、結ばれることはもうあるまい、という欲をついに捨てた時、結ばれた、その「因果関係」というものについて述べたところだ。因果関係というものは、人が思いつくあらゆるものを実現させる、しかし、その因果関係の時間をかけた働きを、ある結果を欲望するそのことが遅らせるのだ、というところだが、今探しても簡単に見つかるはずもない。
「私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞賛されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである」
こんなところに線が引いてあるのを見つけてしまう。
逸れてしまったが、時の営みを相対化した幽霊のような視点から、時間のなかの限られた、現実の私のいる世界が、見つめ返される。寝起きに、布団で、YouTube保坂和志山下澄人の、『緑のさる』(山下澄人の処女長篇)刊行記念の対談を流していたら、保坂和志は『緑のさる』を読みながら、「やっぱり死んだままより、生きてる方がいいな、と思わされた」というようなことを言っていたようだ。「死んだままより」なんて、そんなものと比べられない、普通は。でも山下澄人の作品は、「私」とか、一人、一人が、個人の中に閉じていない、そういう「身体の外側」で共有される「私(みたいなもの)」がずうっと描かれている。
私は『失われた時を求めて』は今、10巻だが、10巻を担当しているのが山下澄人だった。

五月から延期されていた渋谷WWWでの灰野敬二×蓮沼執太のライブイベント「うた」に行ってきた。行く前に頭痛があり、横になっていた。友人の店に顔を出してご飯を食べてから行こうとしたが、行けなかった。その頭痛が抜けると妙にスッキリした頭になり、夕暮れの渋谷の街で親の還暦祝いのプレゼントを買い、久しぶりのWWWに入ると、ライブ前の会場の様子は胸にしみるくらいよく、それから、素晴らしいライブが行われた。

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