日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

137

涼しい日が続いた。スーツの上着を着ていく日があった。九月に入ったばかりだ。夜は虫が鳴いていて、会社帰りの夜風が秋らしい。夏の終わり。

タイミングを逃していた、友達の店へ仕事帰りに行った。小雨が降っていた。窓の前の席に座る。店主である高校の友人が、この季節は高校一年の文化祭を思い出すよね、と言った。

彼が高校時代に付き合っていて、卒業後も、もうフラれているのに十年思い続けたその女性と、付き合う前の文化祭でイイ感じになっていた、その教室を思い出す、と。

季節の変化は、俳句や、さまざまな芸術のもとなんだと思う。「今ここ」が、繰り返される季節のなかの一幕でしかないと相対化される。いや、相対化なんて言い方じゃダメだ。それは新しい目覚めであり、死者の視線でもある、それを季節の変化によってふいに知覚する。

窓から外を見る(店は二階)。夜のはじまりの商店街の外れの路地を、主に帰宅の人たちが歩いている。路地の向かいの建物の明かりがあり、路面の水溜りにもその光が映っている。店の中は暖かみのある照明が満たし、雨からも守られ、高校時代からバンドをやっている友人が作ったプレイリストの音楽が静かに流れている。ザ・バンドトム・ウェイツギルバート・オサリバン

窓の上には本棚が据え付けてあり、たくさんの(友人やお客さんが持ち寄った)本。

今度雑誌に載るらしいが、あまり人が来すぎてもなぁ。


柿内正午さんのブログを読んでいる。毎日、原稿用紙3、4枚は書いているだろう。すごい面白い。『プルーストを読む生活』を買おうと思って、すでにジュンク堂など大型書店にはなくなっているのは知っていたし、柿内さんツイッターでこの本の取次書店がどれもステキだと言われていたので、渋谷のSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSという店に。ここになかった。文學界に特集されたばかりで品切れになっているようだった。以前のアップリンク渋谷があった通りのもっと奥にある、とてもイカしてる店だった。とても静かだった。お客さんは平日の昼間だが、多かった。

ウェブで現在のものが読めるし、まあよい。駅に戻るときにジュンク堂で、例の店の載ったオズマガジンを立ち読み。青山真治監督の『空に住む』がTSUTAYAに新作で出ていたのでレンタル。永瀬正敏も出ているんだ。

映画は非現実、非現実を求めるなら、日常を踏み外すことか、ブログも日常に隣接したフィクション、それを伴って社会を生きること。


文學界10月号には磯崎憲一郎の新連載「日本蒙昧前史 第二部」が掲載されている。久しぶりに磯崎憲一郎の小説を読んだ。全体の一部である文章のひとつ、たとえば今ランダムに開いた「晩秋の夕暮れ時だった、ゾウ舎の前から動物病院に向かってまっすぐに進み、木立の間を抜けて東園から西園への連絡橋「いそっぷ橋」を渡った」というここを、前後の脈絡とかにも拘らずただイメージする、そんな愉しさ。ギューっと具体的な事物が詰まった文章の、ただただひとつずつを、かつてどこかにあったそれとして思い馳せる、そういうことができる小説は実はあまりない。あるイメージにすでに塗られているから、みたいなことだが、そんなに本を読んでいないからわからない。

コントロールの外に出る、役に立つ・意味があるの外で「ただある」、「あるものはある」と、柿内正午と保坂和志の対談はずっと言っている。柿内さんのブログは昨日は小島信夫が引用されそれについて書かれていたが、小島信夫のようにコントロールを外れた作家は他にいない、ということ。書くことで外れることができる、そこへ子供の遊びのような無謀さでやれるのは、大人の社会生活と分裂する。

f:id:tabatatan:20210916210442j:plain