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『ドライブ・マイ・カー』


十五夜に『エンドレス・サマー』を聴いている。正確には十五夜は明日だ。ふとヨスカで開いた雑誌に石橋英子のオススメディスクが並べられていてそこによく見知った、親しみのあるクリスチャン・フェネス『エンドレス・サマー』の海に夕陽が沈むところのジャケがあるのを見つけて、久しぶりに聴きたくなった。

石橋英子は『ドライブ・マイ・カー』の劇伴を担当している。渋谷シネクイントで『ドライブ』のサントラがあったので、二子玉川シネマで『ドライブ』3回目を観た時に店員に聴いたら、よくわかってなかった。サントラは置いてないらしい。

『ドライブ』は、ある芸術作品との出会い、関わりを描いた映画なんだ、とわかってきた。劇中で、それぞれの登場人物と、ロシアの名作戯曲「ワーニャ伯父さん」との出会いや、長い関わりが描かれている。

パンフレットに寄稿している劇団チェルフィッチュ演出家・岡田利規が、映画ラストの「ワーニャ伯父さん」の上演シーンで、その上演を観客席で観ているミサキ、彼女のような観客にこそ演劇を届けたい、ということを述べていた。

ミサキは、広島の演劇祭に招待された、その多言語が入り混じって上演されるという新奇な演出の「ワーニャ伯父さん」の演出家・家福(西島秀俊)の広島でのドライバーとなる。

車のなかで、家福は女性の声で吹き込まれた「ワーニャ」のテープを繰り返し流す、それを毎日聞いて運転するミサキ。その声は、家福の2年前に亡くなった妻の声であることを知る。

また、出演者の一人、言葉を話すことができず韓国手話を使ってソーニャという少女役で出演する韓国人の女性の家庭に招かれ、家福とともに夕食を供される。彼女が今回、ソーニャを演じるためにこの舞台に出演する背景を、ミサキは知る。

そしてこの映画で名付けられない素晴らしい演技を見せる岡田将生が演じる、高槻耕史という名の売れた若手俳優。自分をコントロールできない彼も、家福の亡くなった妻との関係から、広島の家福のもとにやってくる。

ワーニャを演じるための、演技について、家福に食らいつく。ある秋の日、ミサキが休んでいた公園の一角で、屋外の稽古として出演者たちがやってきて稽古をする。「今、何かが起こっていた」と家福が珍しく評価した、ソーニャとエレーナ(台湾人女性が英語で演じる)のシーンを、ミサキも目撃する。

「今、何かが起こっていた。でもまだそれは役者の間でた。これを観客に開いていく。一切損なうことなく、観客にも何かを起こしていく」と家福は評していた。そのことを、あるバーで高槻が家福に質問するのだ。

家福は、これまで「ワーニャ伯父さん」を演出してきて、自身がワーニャを演じてきた。でも、もうこのテキストの恐ろしさに自分を差しだすことができなくなった、というようなことを言う。妻との関係、自身の弱さから、蓋をしたまま妻は秘密を抱えたまま亡くなってしまったこと、それらはチェーホフ(「ワーニャ伯父さん」の作者)のテキストに響いている。

ワーニャに、高槻は向かう。ところが、ある事件から、ワーニャ役(高槻)が不在になる。演劇祭主催者から「公演を中止にするか、家福さんが出るか」と迫られ「僕はできない」と家福は答える。二日の猶予が与えられ、妻との思い出の詰まった愛車・サーブで、ミサキの北海道の地元の村、そこを見せる気はあるか?と家福は運転席のミサキに問う。

ミサキは土砂崩れで実家が倒壊し、そのなかで母親が死んだ。唯一の身寄りであり唯一の友人でもあった母をそこに残したまま、ミサキは18歳で北海道を出てきた。

運転してきた車が広島で故障し、それからは運転手として一人生きてきた。その土砂に飲まれて倒壊した家屋の残骸が雪積もる斜面に覗いていた。そこに弔いの花を投げ、互いに深く腹の底で言葉にならなかった思いの澱が、はじめて言葉になってそれを発する本人も当惑するように告白される。

サーブに乗って広島に戻ると、映画のラストは「ワーニャ伯父さん」の上演だ。ワーニャを演じることを、家福はふたたび引き受けた。苦しい、苦しくて耐えられない。舞台袖で顔を歪める。一度も弱みを周囲に見せなかった彼が。けれど、弱さを吐露することを避けるのは、家福が直面した本当の悔いではなかったか。

こうして家福は「ワーニャ伯父さん」という作品、ひとつの芸術作品に向き合う。そして、ラストの、ソーニャがワーニャを抱きしめながら無声(韓国手話)で語る、おそらく戯曲が書かれて以来100年、数え切れないさまざまな国の人の心に残ってきたであろう台詞を、ともに出会い過ごしてきたミサキが、観客席で眺めているのだ。

芸術作品と人との関わりは、こうしたものだ、とそれを捉えるカメラが言っているようだ。たぶん、ミサキは何もそれらしい批評どころか、感想さえ言葉にしなくても。


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