日々と文学

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連休の最後の日にいつもの三軒茶屋TSUTAYAで『海抜』という日本映画が目に止まった。手に取ったら、キャストも監督も知らない人たちで作っていて、これは大学生たちが大学の卒業制作で作ったものだった。それがミニシアターでかかっている、ならともかくDVD化されてTSUTAYAに並んでいるとは珍しい。『パーマネント・バケーション』もジャームッシュの卒業制作だったと思う。

監督は高橋賢成という人で、2018年の映画。東京国際映画祭に招待され、ドイツの映画祭で受賞している。これを借りて、家に帰った。

スマホで予告編を見てみたら重そうな感じで見るのはやめておこうと思った。タル・ベーラなんかを部屋を暗くして3時間くらい流しておきたい、アッ、『サタンタンゴ』のDVDを買っておきたい、あれは7時間ある。そんな感じで、やっぱり『海抜』を再生した。

これがすごい映画だった。返却する前に、あの感じをと、もう一度再生しながら別のことをしようとPCを開いたが、もう映画を見てしまう。ひとつひとつのシーンをしっかりこの主題のために、捧げていく、それがひとつの作品としてある影をもって生まれてしまっている。若い作者が一本の80分の映画を作れる、それでも(だからこそ)、作品をしっかり自分から切断させていて、とても立派だしすでにここまで表現に真剣であることに感心する。

ちらっと見たインタビューでは劇場公開となりついに作品が自分の手から離れていく時泣いてしまった、とたしか監督が語っていた。なにより主人公のヒロシがいい。この人も大学生だと思うが、本当に今でもあの、特に出所後の俯き気味で無口だが凛々しい顔の、あのヒロシがリアルな存在感で私の胸のなかに蘇る。胸のなかなのかわからないが、もしかしたら私があのヒロシを帯びる、ということかも知れないし、忘れ難いというか、忘れてはならない存在として今はある。「もうすぐ世界が終わる」ということが信じられているらしい海辺の街の高校生。やはり私は、ひとつのことを思い続けること、なにか自分の感覚としてハッキリと感じられたもの、これを第一に信じること、それを十二年した男がヒロシで、それは十二年で加速する。弱まるのでなく、強くハードになっていくことで、ヒロシはなにかだった。そしてそれが最後に解かれたとき、ヒロシは斃れたのだ。

昨夜から眠れなくて、あれこれ本を思いつくまま引っ張り出して読んでいる。最近は宮沢賢治ちくま文庫の『宮沢賢治全集1』これは詩集「春と修羅」。『宮沢賢治全集9』これは賢治の書簡。あとは筑摩書房の『宮沢賢治コレクション1』で童話。それと昨夜はハーマン・メルヴィルバートルビー 」を一瞬冒頭のみ読み始め、今朝は小島信夫。『ラヴ・レター』を開くと面白くて、最近胸によぎってた『私の作家遍歴』。1、2巻は読んでいたが、最終3巻が未読で、読むととても面白い。久々の感覚にニヤリとすらなる。久々の感覚、というのは、単線的な文章でなく、水面に石をポンと放り込んだときに広がる波紋を追いかけてゆくような色んな方面にあちこちが接続しひとつひとつの物事が新しく捉えられる、実は人の頭とか意識はこういうことをしていてだから思考は誰しもやり続けるものなのだが、その「思考」が太く様々な文学作品や作家、時代の背景やさらに関連する作家…と密度で織りなされる。答えに向かうのでなく、予感に向かう、だから予感は姿を見せ始めるとまた大いなる予感が見え隠れしてきて、どこまでも止まない。それをこの長大な書物とした。なんて素晴らしいんだ。

「ロシアの知識人がみんな小説を読み小説を書こうとしたのは、小説でしか表現出来ない考え方をして生きていたからであると私は思う」

小説でしか表現出来ない考え方とは、矛盾する考えを同時にもっていることを表現することである。ロシアの国、ヨーロッパとアジアに挟まれたそこのことを、特にロシアの文学などとともに考えるが、全然それは一部というか、もっと緻密でスケール大、という矛盾を実践している。


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