日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』を買いに、大きな蔦屋書店に行ったがなかった。姉の文が載った宮本浩次特集の別冊カドカワを見て、帰ってきた。自宅駅のツタヤで、『倫敦から来た男』をレンタル。

「体系よりも、一つ一つの発見である。その発見の中におのずと体系があるものならある。すくなくとも体系など問題ではないと見せることの方が真実の近くにいることになる。なぜかというと、真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」

この最後の「真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」に線が引いてあった。小島信夫『私の作家遍歴Ⅲ』のはじめの方。以前読んでいた時に引いたのだ。当然静止した答え、真実があるわけではない。その都度、集中力でそこに向かい、ついに何かをつかむようなことがある、つかまなくてもいいが、悟り、というのもそういうこととどこかで書かれていた。悟ったからもういい、ではない。むしろ、つかめなくてもそのプロセスだ。何度でも、その時々のやり方で。

折坂悠太『心理』が発売になった。よく聴いている。実家に泊まった時に眠れず、YouTubeを見ていたら、その前日に発売になっていることを知り、次の日買いに行った。実家から戻る途中でスーツを買った。とんでもないトンチンカンな女性が接客してくれ、終始話がスムーズにいかなかった。ほぼ全ての質問などを「ちょっと待ってて下さい」と奥の別のスタッフに聞きに行った。結構オバチャンだったが。そしてその夜店から電話があり、スーツの仕上がりの日付を一週間後のところ明日と書いて引取票を渡してしまいました、とのこと。

渋谷タワーで折坂悠太『心理』を購入。他にアヴァンギャルドのコーナーで日本の古い音楽などの断片など使用しているエレクトロニカというのか、冥丁(めいてい)という人?ユニット?の『古風』という作品が視聴して気になる。

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折坂悠太だけ買ってきた。

久々に『カンバセイション・ピース』を読みながら出勤している。冒頭から、世田谷のこの小説の主役とも言える古い家の、間取りから以前住んでいた家族構成、現在の住人についての導入となるところで、階段の手すりは老朽したがその階段の上から差す光は今も変わらないことや、現在の住人のひとりである大学生の小柄な女の子のゆかりが大柄な会社員の森中、綾子と話していると、それは自分が小さい頃にここで年上の従兄弟たちと話していた、その子ども時代が繰り返されているとか、私は自分のおばあちゃん家を思い浮かべながら、それを強く、リアルに感じた。

見ている他者の会話の光景、そのなかの小さな子供が自分や従兄弟の子供時代なら、なにも子供時代を欲望したり現在を否定することはない、というか「私」というものは記憶や、過去や現在の他者やすべてと繋がって、それらが「私」を押し出してここにあらしめてくれている、「私」もその他もどちらかがなくてもどちらも今のようには成立しない、いや逆に、どこに行っても、どんな時でも、実は一緒だ、ということに向かえまいか。

「私に分かってきたように思えることは、人間の愛とは、自分と異なるものを、自分と同じものだというふうに思うに至ることのようなのである。そのために人は遠くへ出かけて行って、自分とは別と思われるものをさぐり歩く」

『作家遍歴Ⅲ』を読み進めると、ここに過去に読んだ時の線が引いてあった。なんとなく数年前の同時にここで感じていたことは思い至るが、今はもっと別のことまで考える。

「作品を作り出しだり、仕上げたり、役者のことを考えたり、観客のことを考えたり、ギリシア悲劇だったら、コンテストの審査員のことを考えるうちに、自然にそれが人を愛し、神さえも愛し、けっきょく自分を愛することにもなったのである。手間や手続きは直接自分というものを離れたかたちで行われたから、これこそほんとの、まことに好都合のものなのである」

これは一緒くたにして間違いかも知れないが、芸術のプロセスであり、人を思うプロセス、つまり他者を理解しようとするプロセスであると思う。