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115. 『失われた時を求めて』第9巻

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「私がスモーキングを着こむとき、ふとした仕草が呪術のような魔力を発揮して、はつらつとした浮薄な自我、つまりサン=ルーとリヴベルに夕食に出かけたときや、ステルマリア嬢をブーローニュの森の島へ夕食に連れてゆけると想いこんでいた夜の私の自我を呼び醒まし、私は無意識のうちに当時と同じ歌を口ずさんでいた。そのことに気づいてはじめて私は、その歌によって間歇的な歌い手の存在を認めた。実際その歌い手は、その歌しか知らなかったのである。その歌をはじめて歌ったとき、私はアルベルチーヌを愛しはじめていたが、けっして親しい関係にはならないものと想いこんでいた。その後パリでそれを歌ったのは、私が愛するのをやめたアルベルチーヌをはじめてものにした数日後のことである。」

何種類もの人がいる。何色ものカラーがある。気分がいくつも存在する。その「気分」「モード」こそ生きたひとつひとつで、個人と思い込んでいる「私」や「あなた」の身体はその生きたものの媒介である。と考えることは私にもよくある。ある場所に立ってそちらを見ると、ふと何キロ先までの巨大な景色が視界に入る。この驚きはこの場所がある限り、ここに立つ身体がある限り何度でも生まれる。プルーストにはスモーキングを着こむこと、「こんな遅い時刻に身支度の最後のしぐさ」をすることで、呼び覚まされる「歌い手」がいる。そいつはいつも同じ歌を歌っている。

引用文の最後、「数日後のことである」に註がついている。これを見開きページ末の傍註で確認すると、「ステルマリア夫人との夕食のために身支度をしていたとき(本訳⑦114ページ)」とあり、第7巻の該当箇所を開いた。

「バルベックでは、こんな遅い時刻に身支度の最後のしぐさをしながら自分のことではなくリヴベルで会える女たちを想いうかべ、室内に斜めに置かれた鏡のなかでその女たちに微笑みかけたもので、それゆえこうしたしぐさは、光と音楽のまじりあう歓楽の前触れとして生き残ったのだ。」これは一度目の、昨年のバルベック(海辺のリゾート地)滞在時のことで、それをパリの自宅でステルマリア嬢とデートする前に思い出している場面だ。ここで出てくる「斜めに置かれた鏡」は第9巻のはじめの引用文の箇所にも出てくる。ふたつの夏で同じグランドホテルに滞在しているからだ。そして、7巻の引用文の後に続くところこそ、今回書いてみたかったところだ。「そのしぐさは魔法の合図のように歓楽を想起させ、おまけにすでにその歓楽は実現されつつあり、そのしぐさのおかげで私は、歓楽の真相がどんなものかを確実に理解し、歓楽の心酔わせる軽薄な魅力を余すことなく味わうことができたのである。

この傍線を引いたところ、このことだ。

「それゆえこうしたしぐさは、光と音楽のまじりあう歓楽の前触れとして生き残ったのだ」

たぶん、芸術を鑑賞することと大きな関係がある。何かのイメージが得られること。記憶が蘇り現在を支配してしまうような時。「ここ」ではない「もう一つの場所」が生じる時。

「確実に得られるその快楽を待つことは耐えがたい。(略)この待機状態は無数の快楽実現となって、あらかじめ頻繁にその快楽を想い描くために、激しい不安のただなかにあるのと同じように時間が細かく切り刻まれる」

これも7巻からの引用だが、考えまい、もう別のことに集中しようとしても、はじまる想像。あるきっかけで一晩中その想像が繰り返し私の頭、身体を使って再現し続ける。それは実現しているのと何が違うのか、とこれに苦しめられる私は思ってきた。それはいわゆる現実で実現されることはない。それだからこそ「真相がどんなものかを確実に理解」することができる、「歓楽の心酔わせる軽薄な魅力を余すことなく味わうことが」できる。そう思えてきた。

ここで、その夢想・想像を膨らませるほど現実の社会での躓きがひどくなる。何も夢を見ないこと、無心となること。ところが第9巻にこういう箇所が出てくる。

リゾート付近のある小派閥をつくる人物の別荘での晩餐会に出かけて行く時、同じグランドホテルに滞在している裁判所長が、私とアルベルチーヌに「よほどなにもすることがないと見えますな」と言う。

「もとより報告書を執筆したり、数字を並べたり、商用の手紙に返事を書いたり、株式の相場を追ったりする人が、こちらをせせら笑いながら「なにもなさることがないとは羨ましいですな」と言うとき、快い優越感を覚えるのは至極当然である。ところがこちらの暇つぶしが『ハムレット』を書くことであったり、ただそれを読むことであったりすると、その優越感は明らかに侮蔑的なもの、いやそれ以上のものになる(というのも晩餐に出かけることは忙しい人でもやるからだ)。そんなふうに軽蔑するのは、忙しい人たちに思慮が足りないからにほかならない。というのも私利私欲なき教養というものは、人がそれを実践しているところを目にすれば閑人の笑止千万な暇つぶしに見えるだろうが、忙しい人たちがよくよく考えるべきは、自分自身の仕事においても、その同じ教養こそが、もしかすると自分よりも優れているわけでもない司法官や行政官たちをずば抜けた人間たらしめていることであり、その人たちのすばやい昇進を目の当たりにして「大へんな教養人、じつに傑出した人物だそうですね」と言って脱帽せざるをえないことである。」