日々と文学

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113.『ユリイカ』12

ユリイカ』という題のまま書いてきた。

4時間の映画において、沢井真をはじめ、田村ナオキ・コズエ兄妹、アキヒコといった4人の、大きな困難の果てに訪れる、ラストの風景。モノクロがはじめてカラーになって描きだされる大観峰の空撮。コズエが言葉、声を取り戻し、「帰ろう!」と沢井の言うのを合図に、バスに戻る。旅は終わり、映画は終わる。もちろんこれで彼らの困難や旅がすべて消失することはない。映画は終わるが、彼らは明日からの生活がある。

私は小説や映画における風景、いや、ただ「風景」とは何かと思って書いてきた。『ユリイカ』では海が出てくる。一度だけだが、まず冒頭はじめのセリフが「大津波がくる」というコズエのモノローグだったし、ナオキが「海だ、見えるか?」と声無き声でコズエに呼びかける。映画後半で海に出て、コズエは海辺で突然倒れる。起き上がると、一心不乱に海の中に入ってゆく。そこで、「お兄ちゃん、コズエ海におるよ」とカメラを見据えて声無き声を送る。

風景は誰にとっても「私」の前提となる。うまくいかない、救いがない、絶望しかない、という時、もう一度「世界」が先に、一人の人間くらい小さなものには絶対的なほど「世界」が先にあったのだと、当たり前のことを風景が気づかせる。その時、どんなに寄る辺なくても、その風景を目の当たりにしている「私」がいる。いなくてもよい。

また海こそは、大昔から変化ないように見える。この前、神奈川県立近代美術館に行ったが、美術館の裏がすぐ砂浜になって、緩い円弧を描いて海を受け止めていた。波の音とともに、見渡す水平線の向こうに、今見えている視界の限りのものよりずっとずっと広大な海原がなお続いているのだ、と想像して眺めた。

失われた時を求めて』にこうした一節があった。

「しかし想い出すことのできない想い出とはなんであろう?さらに立ち入って考えてみよう。われわれはすべてを想い出すわけではないがこの三十年の想い出にどっぷり浸かっているというのなら、なぜ三十年にかぎる必要があるのだろうか?以前の生をなぜ誕生以前にまで延長してはいけないのだろう?私には自分の背後にある一部の想い出がそっくり欠け落ちていて、それが見えず、それを自分のもとへ呼び寄せる能力が欠けているのだとすると、この私のあずかり知らぬ膨大な集合体のなかに、私の人生以前にまでさかのぼる想い出が含まれていないとだれが言えよう?」

今の季節、春のこの暖かい夜に街を歩いていると思うのだ。たしかに「私」より先にこの世界があり、それは今のところ「私」を含んでいる。春の到来とともに満ちている過去の春の記憶が、今の「私」を眺めている、と思う。その時、そこにあるのは過去とされるものであり、それが包んでいる今とされる私は未来である。未来とされる私を、今とされる私が過去の春として見つめている。

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