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(105)『ユリイカ』4

「Eureka」が流れだしてから私は、10年前にこの映画をはじめて見ていた頃、22歳頃に、映画『ユリイカ』が先か『Eureka』が先かもうわからないが、ジム・オルーク『Eureka』をよく聴いていたことがブワッと思い出されてくる気がした。

映画の冒頭は、コズエのモノローグで「大津波がくる」と言うシーンだった。そこから朝、兄妹が学校へ行くのに家を出て、バス停でバスを待ち、バスに乗って、バスジャック事件が起こる。

あと、アキヒコが倉庫から兄妹の父親(すでに事故死している)のゴルフバッグを出してきて、退屈しのぎに(こういう所にもアキヒコの性格がでている)庭で、ゴルフクラブでブンブン素振りを始めると、ソファに仰向いて寝ていたナオキがそのブンッ、ブンッ、という風を切る音で動転する場面がある。庭に出てきて、ナイフで人の背丈ほどあるセイタカアワダチソウをめちゃめちゃに切り倒す。そのとき、ナオキのモノローグ、実際に口を動かして喋っているのではないナオキの声が映画内に聴こえてくる。「見えるか、コズエ。海じゃ。見えるか?」と。「見えるか?海じゃ」

それは兄妹の家の庭ではなかった。動転して呼吸の短くなったナオキが、次のシーンで雑草の広がる空き地にいて、セイタカアワダチソウなどに身を囲まれて横顔の頭だけが出ている戦場みたいなカットだが、青山監督はこの長い映画のひとつ、ひとつのシーンを見事に端正に撮っているが、またその雑草に隠れたナオキの向こうをバスが走り過ぎていた。

「見えるか?コズエ、海じゃ。見えるか?」「見えるか?海じゃ」

その雑草のなかでナイフをふり回すカットの前、横顔の頭だけのカットの次に、コズエが家の窓辺に立ち、呼び寄せられるようにカーテンを開く。「見えるか?」とこの時ナオキの声がし、コズエはつまりナオキのモノローグに呼応するように家の窓から外を見ている。少し開けた窓ガラスに雑草の広がりが映っている。そこにも、またナイフをふり回すナオキの周りにも雑草や遠くに山が見えるが、海はない。切られたセイタカアワダチソウの断面から、血のように白い泡が流れでてくる。このナイフでナオキは少なくとも4、5人の女性を刺し、沢井の手のひらをキズつけたのだろう。沢井の手は、沢井が自分から、夜、バス旅行の日々のなか殺人を繰り返していたナオキを見つけ、その握られたナイフの刃をつかんだのだ。その夜、また女性を襲うすんでのところで沢井に発見された。

ユリイカ」とはギリシャ語で「発見」という意味の言葉だ。いや、「感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシヤの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされることである(Wikipedia)」とのこと。

たしか、以前ジム・オルークの先述のCDアルバム『Eureka(ユリイカ)』に触発されて青山監督がこの映画のタイトルを名付けたと何かで聞いた。そして終盤、コズエと2人になった沢井のバスで、『Eureka』収録の7曲目「Eureka」が流れる。コズエが海に入っていき、『大人は判ってくれない』みたいに海の中でカメラを見据える。そこで「お兄ちゃん、見える?コズエ、海におるよ」とやはりそこで喋っているわけではないコズエの声が言う。この時も「Eureka」が流れていて、高校の放課後に吹奏楽部の練習が聴こえるみたいな、複数のラッパたちが鳴らすめいめいの音が漂うようななか、キーボードなのか何なのかの音がベースラインのような、ラッパの雄大な感じの音とそぐわない音をつづけている。またちょっと鳥の鳴き声に似ている電子音がメロディとは無縁な感じで無作為に鳴っている。そういう曲のなか、海の波の音が激しくうなっている。デザインされた音楽としての、ひとつの方向性みたいなものがない感じ、違った音たちが互いにかき消したり干渉したりせずに勝手に同期してるのが心地いいが、『ユリイカ』にとってこのシーンは何か?兄妹にとってこの海はなにか?

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