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112.『ユリイカ』11 サクラ、海、ベーコン

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サクラはまだ咲いていない。これを書いているのは3月14日、よく晴れた日曜日だ。渋谷の街には半袖Tシャツ一枚の人もよく見かけた。昨日の豪雨、雷雨がすべてを洗い流していった。大気がごっそり入れ替わり、まだ風が強いなか、深い青空が覗いている。

ツァラトゥストラ』は下巻の第三部まで読了。なんとも言えない量感だ。渋谷まで来てパソコンを買おうと思ったが、クレジットカードを更新していてサイフに入ってなかった。すぐに帰ってきた。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』を第三部でいったん完成としたようだが、まだだ、と第四部が書き加えられて脱稿した。

言葉はすべての「重い人」たちのものであり、軽い人は語らずに、歌うのだ!踊るのだ!と言って第三部が終わった。

 

もう3月も終わり。サクラも満開を迎えている。江ノ島の海と葉山の海に行ってきた。フランシス・ベーコンの絵を見てきた。ベーコン、そしてセザンヌ

セザンヌはよく、自分の筆使いをじっと見つめながら何時間も過ごした。戸外に出たときは、凝視によって対象がぼやけて消え、あらゆるものの形が混沌とした状態に崩れていくまで、対象をじっと見続けた。セザンヌは眼に映る像を崩壊されることで、視覚の出発点へと戻り、「感度のいい記録板」になりきろうとした。この方法は時間がかかるため、歪んだ四角のテーブルに置かれた数個の赤いリンゴとか、遠くから眺めたたった一つの山といった、単純なものに焦点を当てざるをえなかった。」

孫引きとなるが、ジョナ・レーラー『プルーストの記憶、セザンヌの眼』、佐々木敦『それを小説と呼ぶ』より。『失われた時を求めて』の4巻に登場する画家のエルスチールについて書かれた箇所、何度も書き出している次の一節をまた引いておく。

「描く前に自分を無知の状態におき(自分が知っていることは自己のものではないと考え)実直にすべてを忘れようとする」

もう一つ、読了した『ツァラトゥストラ』に知性についての箇所がある。

「わたしの徳もまた恐怖感から生まれてきたものだ。すなわち、学問というもの」

エンディングにツァラトゥストラの森の洞窟に数人の「ましな人間」たちが集まり、そのなかの「良心的な学究」がこう言う。恐怖を解消するため身につけたものが学問であると説く。それに対しツァラトゥストラが言い返す。

「思うに、恐怖心なるものは、われわれの例外にすぎない。これに反して勇気、冒険、不確かなもの、まだ誰も手をつけていないものへのよろこび、要するに勇気こそは、人間の一切の先史学だと、わたしには思われる。人間はきわめて原始的な、勇気ある動物どもに嫉みを感じ、そのすべての長所を奪い取った。こうして人間ははじめて人間になった」

そうだ、疑う人、それは知性でない。信じることこそが知性である。

「しょっちゅう言ってるように、相手の言うことを信じる人は書いたり作ったり歌ったり踊ったりすることに向いてて、信じない人は評論家的なんです。信じることこそが知性なんです」こう保坂和志が「胸さわぎ」で書いていたではないか。