日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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毎朝セブンイレブンまで行って新聞を買ってきて、シャワーを浴びる。夜は眠れず、朝までよく眠れず、またぼんやりした頭でセブンイレブンに行く。そして会社へ。

新聞というものを読んでいると気がつくのは、自分の関心の分野について。やはりアジアの記事に引かれ、あとは中東、そして南米。それらは「香港の民主派新聞が国によって圧力をかけられ廃刊」「シリア内戦地域への支援をめぐって」「キューバの過激デモ」「クルド人難民と日本の入管」「ミャンマーの軍事クーデター」「南アフリカの暴動」など。こうした統治の不安定(それは相対的なものでしかないか)な国々、そこには反抗があると思う。たとえばキューバアメリカの制裁によって支援がなくなり生活ができなくなった、と過激なデモをやる、私の誤読でもあるが、アメリカちゃんと支援しろ、というデモだと読んだら、なかなか根性ある。

そう考えると、日本や先進国が、大人しいよい子たちの国に思えてくる。メッセージがふつふつ生活のレベルで表出してくる、これが芸術がけしかけていること、称揚してることではなかったか(それを思うと自分の関心が実はかなりまとまっていることに気づく)。


ふと、仕事をしている姿というのは、カッコいいものだろうか、と出勤前のサンマルクで思った。私の席の横が店の調理場で、その壁の西部劇みたいなスイングドアの中のたぶん1メートル四方くらいのスペースに店長がいて、事務作業スペースになっているらしかった。そこでアルバイト店員の申し出を聞いたり、パソコンの入力をしたり、配達業者の伝票を受け取ったりしてるその長身で寡黙な店長の、無私で的確らしい仕事ぶりが色気を感じるようだ。たしか、このブログでかつて磯崎憲一郎の小説の主人公の、選択の余地なく連綿とつづく時間の流れのひとつに絡め取られ翻弄され、けれど、だからこそ力の限りを尽くすことのできる、その姿から立ちのぼる色気のことを書いたと思う。

こういう「無私」というのは、芸術と両極にあるのではない。芸術は無私でないと出てこない他者性がある。いわゆるこだわりでなく、作品の生まれてくる、その運動に乗ること。そういうことは言われているし、わかる人にはわかることだと思う。まあ自分にこだわっていたら生まれてくる小説に飛躍できない。その飛躍がないと芸術たりえないという。


「新たな言葉をでっちあげて社会問題化する連中に対抗して、そんな言葉をそもそも認めないという闘いが必要なのである」

『オーバーヒート』を読んでいる。今日(7/15)の新聞で、芥川賞が発表されてた。千葉雅也『オーバーヒート』は受賞しなかった。昨夜は一睡もせず朝となった。腹が減っていたので、セブンイレブンでソバを、新聞と一緒に買ってきた。先日誕生日プレゼントとしてもらっていたカモミールシトラスハーブティーを淹れて飲む。涼しい夜で、クーラーで足が冷えていてオシッコに何度もいったから、温かいハーブティーを。おろしソバを食べて、新聞を見ていると、少し眠くなり、小一時間意識が遠のいた。で、洗濯して喫茶店に行き『オーバーヒート』を。随筆みたいな内容で、でもハッキリ小説を読んでいると感じる、これはどういうことか(まだ開始20ページほど)。とにかく、鮮やかな場面、もっと断片的な瞬間、過ぎる思考、欲望などが切りとられ、散文として構成される前に半ば自律的に走ってゆき、動的な世界をなしている。この作者がコントロールし切る前の状態こそ生きている作品という感じがして好きだ。