日々と文学

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(108)『ユリイカ』7〈海〉

小学校三年生まで湘南の団地に住んでいた。住所も「辻堂西海岸」で、少し歩けばビーチだった。左に江ノ島があった。そこに今でも年一回、あるいはもう少し少ないペースで行っている。

海の中には入らないが、江ノ島や辻堂の海岸に行きたい、とたまらなくなって行く。下北沢から小田急線で片瀬江ノ島は一本だ。江ノ島では駅の周りをビキニの水着姿で歩いている女の人がいて、ドキッとする。

見上げると、広く晴れた空。洗濯物を干すみたいにトンビが翼を広げて浮かんでいる。潮の香りが灰色の砂浜からムッと湧く。

江ノ島には何カ所か途轍もなく見晴らしのよい所があって、絵ハガキみたいな風景が開ける。私はその時の感じ、身体と広大な風景(ここでは海と空、富士山も見える)との反応について、それを知りたくて文章を書いているのではないか、と思い返す。いや、風景に身体がもっていかれるように、季節の変化に自分が分裂する感じ。

この原稿用紙の枠外の余白に「セザンヌを見る時間」とメモしてある。

私は今後も、許された時間のなかでセザンヌのサント=ヴィクトワール山の数々の絵を見てゆくだろう。「こうか!」と思いかかると逃げていくようなあの絵、あのタッチとともに、私は今後、風景を見たりするだろう。

「山の向こうに山以上の何かがあるのでなく、山がある。山を見て人が山より大いなる何かを予感したのだとしても、それはまだ汲み尽くしていない山のことだ」

私は見ることや聴くこと、嗅ぐことを通して、その対象と入れ替わることができる、と年々本気で思いはじめているようだ。感覚を通して外部と通じる。それがよりグッと親近感を伴って歓びとなるのが、つまり言語を通しているのが人間の交際の楽しみである。特に最近、大人、というか中年とかもっと上の人はそればっかにかまけている。一人で楽しむことより、他人と楽しむことは、楽しめなくても肯定できる、よしとすることができる。他者のためなのだから。

でも本当の他者は、木や、海や、空や鳥、昆虫や野良猫の方ではないか?いや、他人、人でいいのだが、それは他人であり、自分ではないことを大事にすることだ。歩いてきて海に出たこと、その海を望んで半日歩き回るのは、その人は変わる。海や空が、言語のゴチャゴチャ詰まったその人に注入され、次第に入れ替わり、海や空に満たされ、ヘタしたらそっち(海や空)の方が多くなる。風景には他者もいる、記憶もある。記憶は自身のうちにあるのでなく、この風景や、外界の方にあるということも、年々感じてきていることだ。

青山真治は映画を撮ることで考えている。日々の暮らしと、表現というか、アウトプットすることで前に、頭だけではできない展開をさせることができるかのようだ。

もう一度書いておくと映画の最初のセリフはコズエの「大津波がくる」だ。この登場人物のモノローグは何か?これを、映画を誠実に見るならば、「脚本」とクレジットされている青山真治が操作して冒頭のここに最初のセリフとして、何らかこの映画の重要なモチーフ「海」のために、ここに置いた、のでなく、北九州市の1993年の夏の小学生の田村梢という人の言葉である、とそこから考えなくてはわからない。彼女の、これは明確には言葉になっていないかも知れないが、言葉にされている。事実として。そしてそれがきっかけとなって?この4時間近い映画が幕を開けるということだ。

「何かが起こる」でなく、「津波」だった。九州という土地も大いに関わっているだろう。「やってくる」のは、「海」だった、というわけだ。「何か」というのと「海、津波」という具体性には歴然とした差がある。

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