日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

123

折坂悠太のライブに来ている、とその会場の写真を送ってくれた友人が、『想像』という、チェルフィッチュの舞台公演「三月の5日間」の制作過程を捉えたドキュメント映画が始まっている、と教えてくれた。ぼくはその舞台公演を四年前に神奈川芸術劇場で観ていた。吉祥寺アップリンクに映画『想像』を見に行った。

チェルフィッチュ演出家の岡田利規は、「想像すること」を、演者にさかんに言っていた。演劇を演じる上でも、日常生活を送る上でも、と。これは、私が先週書いた問題点と繋がってくる。別の可能性を想像すること、ここにいながらここではない現在を想像すること、これが芸術の根本であるはずだが、その想像が、一人で膨らんで、他者と繋がるサイクルが失われること……。

『想像』、二度目を見に行ったが、もう上映期間が終わっていた。ホン・サンスの新作を観た。

休日は映画館に入り浸るつもりでなんとか生き延びようと思ったが、やめて、実家にメシを食いに行く。岡田利規の演劇論『遡行』は本当に面白く、ああした行動・活動をしながら変わってゆく思考、そのプロセスがもっとも私は興味ある。それは空族『バンコクナイツ 』という劇映画に凝集されているし、あと大友良英の音楽とか。だからまず、他者や、外部へ、もう一度。

人の話を聞くことの可能性を、濱口竜介の映画作りから身体を打たれるように知ったのだった。濱口竜介の新作『ドライブ・マイ・カー』が8月20日に公開されるのだ。『遡行』も本棚にある。吉祥寺のガストで、当時、読んでいたのを覚えている。

過去を変えることができるのは、現在である、それもよく書いてきたことだ。過去を救いだすことが、可能らしいのだ。


失われた時を求めて』第10巻の、恋人アルベルチーヌの眠りの場面がすばらしいので、書きだす。

「アルベルチーヌは目を閉じて意識を失ってゆくうちに、知り合ったその日から私を失望させてきたさまざまな人間的属性をひとつまたひとつと脱ぎ捨てていった。いまやアルベルチーヌのなかに息づいているのは、植物に宿るような、木々に宿るような意識のない生命で、私の生命とはずいぶんかけ離れた、はるかに奇妙な生命でありながら、それでいていっそう私のものとなる生命である」

「そのとき私が感じていたのは、自然の美しいもの、つまり無生物を目の前にした場合と同様の、なにやら純粋で非物質的な不可思議なものを目の前にしたときの愛情だった。実際、アルベルチーヌが少しでも深い眠りにはいると、それまでのようにただ植物であることをやめてしまう。そのそばでけっして飽きずに際限なく味わえるみずみずしい官能の歓びに浸りつつ夢想にふける私にとって、その眠りは広大な風景にほかならなかった」

「アルベルチーヌはおしゃべりやトランプに興じるときには女優でさえ真似のできぬ自然な態度を示してくれたが、その眠りが私に授けてくれたのは、より深い屈託のなさ、さらに一段階上の屈託のなさだった」

「胸のうえに片手を置いているが、だらんとした腕は無邪気な子供のようで、私はそんなアルベルチーヌを見ていると、幼児たちの真剣で邪気のない愛らしさに誘われる笑いを押し殺さざるをえなかった。たったひとりのなかに何人ものアルベルチーヌを見てきた私は、自分のそばになお多くのべつのアルベルチーヌが寝んでいるのを目の当たりにする想いがした」

「私は、まるで波の砕ける音に何時間も耳を傾けるように、心静まる無私無欲の愛情をいだいてアルベルチーヌの眠りを味わっていた。相手がこちらをひどく苦しめることのできる存在であるからこそ、放免のときにはこのような大自然と同様の心安らぐ平穏を与えてくれるのかもしれない」

https://sozo-movie.com/