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109.『ユリイカ』8〈ツァラトゥストラ〉

「かれらが「わたしは正しい(ゲレヒト)」と言うと、それはいつも「わたしは復讐(ゲレヒト)した」としか聞こえない!」

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、「有徳者たち」という章。私はその昔、『小説、世界の奏でる音楽』のなかで触れた「永劫回帰」思想に向かいたくて、長い時間が経って、ついに『ツァラトゥストラ』を繙いた。

きっかけは「群像」12月号、昨年のやつだが買ってあって全然読んでいないので開いた。昔読んでた大澤真幸「世界史の哲学」を覗いた。「現代篇4 永劫回帰の多義性」と副題、このシリーズはすでに古代篇、中世篇、東洋篇、近世篇とそれぞれ単行本でけっこうなボリュームで出ていて、読んでいた。

ツァラトゥストラ』のことが書かれてるが、私がそもそも永劫回帰に向かったのは、今が春を迎えているから、そしてこの大澤真幸の連載に「ニーチェが最悪なものと見なしたもの、人類が編みだしたものの中で最悪と解したものは何だったのか。ルサンチマンである。その源泉にあるのは復讐精神だ」とあったため。

敵意、嫌うこと、これは私にとってとても何とかしたい、どんな仕事より取り掛かるべきものだと思っていた。第一部、第二部が上巻。三、四部が下巻でこの最後の方に「永劫回帰」が語られると「世界史の哲学」に書いてある。やはり、はじめからずっと、ニーチェのことを好きな人っているのか?と嫌悪感。世間知らずの引きこもりの妄想みたいな大言壮語が、相当気合を込めて、文章の流れの意味つまり論理より、一個一個の言葉の意味をその度、その言葉の音から触発されて自身の腹から創り出して繋げ合わせる、そんな普通の読書と違う向き合い方(いや、本来の文章こそこうか?)が必要で、すごい日々がイライラしてくる。それでも今は放擲する時じゃない。

大地・身体・愛・友を讃え、神・頭脳・同情・隣人を非難している。とにかく他者より自分が一個で先にある感じが仏典なんかの在り方と違う。

「徳」ということをさかんに言ってる。ふたつより、ひとつの徳をもてるようにと。

「あなたがたはやはり代償を受けとるつもりなのか、あなたがた有徳者たちよ!徳に対してその報酬を、地上の生活に対して天国を、あなたがたの今日に対して永遠を受け取りたいというのか?」

信仰を否定し続けて、ここでない彼岸への奉仕とか、現世のため以外の法則みたいなものを酷い言葉で貶め続けてきた、それは普段「ご利益」みたいな言葉でイメージするあり方を蹴散らすもののようだった、今はニーチェを読んでいるから我慢だが、こんな本読み終わったらまた、自分の考えを取り戻すんだ、なんて思いながら読む。ところが、上記のような(報酬を求めるなという)ことがでてくる。

「わたしはあなたがたに、徳はそれ自体が報酬だ、というようなことさえ言わない」

「復讐、罰、報い、報復などの汚らわしい言葉にかかわるには、あなたがたはあまりにも清らかだ、ということ」

ルサンチマン、復讐を最悪とみなしているなら、上記は当然か。でも「身体、おのれ、現在において、自分のためにおいて」と相反するようだが、つなげると、「自分のために、報いは求めない」となる。

そして「あなたがたは、あなたがたの徳を愛している。母がその子を愛するように熱愛している。しかし、母がその愛に対して、代償を求めようとしたためしはあるまい」

「あなたがたの徳を熱愛する心は、だから、いわば円環の渇望だ」

そして、次の引用は「永劫回帰」思想に繋がる巨大な思想を思わせた。

「あなたがたの徳のなしとげるすべての行為は、消滅する星にひとしい。しかし、その星の光は一刻も進行をやめることなく、旅をつづけている

「母が愛児のなかにあるように、あなたがたの真の「おのれ」が行為のなかにあるようにしてほしい」


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