日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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『偶然と想像』が12月に公開されるよう。『ドライブ・マイ・カー』も3回見たけどもう一度見たい。自宅ではゴッホの画集を眺めている。昨日、渋谷の焼肉屋さんで和牛食べ放題に行ったが、そこに荷物を忘れてきて、今日電話してみた。エコバッグを手提げカバンにしていて、そのなかに『私の作家遍歴Ⅲ』と『宮沢賢治全集 第一巻』が入っていた。『作家遍歴Ⅲ』はアマゾンで見ると二万円の値が付いていたりもする。ゴッホ展も行きたくて、11月は保坂和志さんの「小説的思考塾」がある。12月は今野裕一郎監督の映画『UTURU』が、ケイズシネマで東京ドキュメンタリー映画祭の短編部門で選ばれ、上映される。これは音楽家松本一哉さんの知床でのフィールド録音の旅を映したものらしい。

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そして『偶然と想像』が12/17だ。休みの日に用賀のいつものカレー屋に行き、帰りの電車で『サウダーヂ』が20:00からケイズシネマで上映すると発見、そのまま新宿三丁目。空族は本当に好きだが未見で、23:00近くまでたっぷり鑑賞。最後に特典映像というのがあり、なんと空族最新作の映像だった。『サウダーヂ』が10周年ということで、続編みたいな感じだ。『バンコクナイツ』『典座』を経ての新作だけに、山とか崇高な感じの大自然、忍者みたいな富田克也がいた。そして暴走バイクの集団の映像は息をのむくらいカッコいい。『サウダーヂ』でも終盤の大通りを歩きながら爆音で暴走車が通っていくシーンが一番かっこよかった!映画館を出ると雨が降っていて、走って地下鉄へ。ブルーのスプリングコートを下ろしたのに、自宅駅から家まででぐしょ濡れ。

焼肉の後は二軒目の居酒屋に行き、シークワーサーサワーを飲んでいたら、呼んでいた若い会社の同僚が、新婚の奥さんとラストオーダー間際に来てくれる。彼は数年前はもっと痩せていたというので写真を見せてもらい、超イケメンの上司とどっちがカッコいいか聞かれて「二人はタイプが違う」とズルいことを言うと上手いねと褒められた。

翌日、選挙に行き日曜だが午後から出勤の電車の中で、先日京都の画家の友人に、活動を見たいからTwitterをちょくちょく更新したら?と言っていたのを思い出し覗くと、してた。今は絵本を書いていると言う。下はその絵!

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日常と不在を見つめて

朝起きたら11時だった、職場から二時間前に来てたLINEを返すと、そのまま既読になり、即電話がきた。申し訳ない。

アピチャッポンの新作『memoria』が来年の3月4日公開されるとのこと。その数十分前のニュースを見ると、北米では配信・ソフト化の予定がなく、映画館のみでの上映になる、監督が「この映画は映画館で観ることが非常に重要であり、唯一の方法かもしれないと思っています。観客一人一人に、暗闇を受け入れ、夢を見てもらいたいと思っています」と語っているとのこと。

memoria』はコロンビアで撮影した映画で、アピチャッポンがその映画制作のためコロンビアに滞在しているそのドキュメンタリー映画をカナダの俳優(『A.Wアピチャッポンの素顔』)が撮影したのが2017年、さらに『アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ』というムック本くらい内容のある、たぶんアピチャッポン特集上映のためのパンフレットに収録されている映画制作集団・空族のインタビューでは、アピチャッポンが2016年に「次は南米だ」みたいなことをTwitterで呟いていたと言われている。

そこからすると2022年公開なら6年かかっているが、ソフト化するより「この映画は映画館で観ることが唯一の方法かもしれない」という、そういうものを作った。広く世界に轟き渡ることよりも、これだけの巨匠になってまだ映画の体験そのものをより深く追及しているそのアンバランスさ。カンヌも5度目とかなのに、まだ映画制作をはじめた青年のようなことで、レッドカーペットをティルダ・スウィントンらとともに歩く彼の目も青年みたい。

傑作を完成させること、まるで真実を静的なものとして固定しうるように構築し上げる、そんなことは芸術とは反対のことなのだ、宮沢賢治も、ゴッホも、通り過ぎるその世界のリアルな感触への手がかりをつけようと、外化しようとある種メモのように散文を書き、絵画を描いた。

「真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」と前回小島信夫を引用した通りである。だから宮沢賢治の詩が真実なのでなく、それを書いた賢治と同じようにというのは難しくともただその異常な詩を真に受けること、「信じることが本来の知性」だというそれをやること、その異物・外部を飲み込む熱狂のなかに、熱狂そのものが、真実にもっとも近いか、真実と言えるものがあるとすればそれである。

そして、『アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ』を作ってるのが映画配給会社ムヴィオラだが、ここの代表の武井みゆき氏が、このパンフレットを作っている。ムヴィオラは小さな会社らしく、求人が出ている。noteのブログに武井氏が書いているが、アピチャッポン映画の配給もしてきていて、『memoria』は別会社の配給らしいが、中国映画の『春江水暖』のnote記事など素晴らしく面白い。アピチャッポンのインタビュー記事もこの人が聞き手で、空族のインタビューもそうだった。

『春江水暖』は公開前にnoteで13話も詳細に記事を書いて、パンフレットはやっぱり丹精込めて作っていて、一人でこんなにも仕事していて、こんな熱量で、ワン・ビンの8時間ある『死霊魂』の配給とか、かなり奇特な方だ!といつも思うのだった。

それにしてもゴッホ展、いつも休日(平日)に行こうとするとチケット完売してる。前日とかその前に取ればいいのだが…。

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たまたまあちこちで、言及された佐藤真というドキュメンタリー映画作家の本。映画は見たことがなくて、知らなかったが、このタイトルがビビッときてアマゾンでポチり。たまたま開いたページでゴッホのことが書かれていた。『まひるのほし』というこの監督の映画は知的障害者の絵画など芸術制作にかかわるドキュメンタリーだそうだ。「一般の芸術家が、社会常識にとらわれないように日々その常識なるものと闘いながらも精神を病みきれない不幸にさいなまれているとしたら、知的障害者は、生まれつき社会常識にとらわれない幸福な精神の持ち主ともいえる」

「シゲちゃんのお母さんは、とても教育熱心な人だったという。母親のこの深い愛が、シゲちゃんには裏目に出て、街の女の子への執着となったのかもしれない。社会的には、シゲちゃんは人前で言ってはならない言葉を街中でどなりまくる「困った障害者」である。そしてある日、シゲちゃんのお母さんは追い込まれて自ら命を絶った。そのことを知った時、シゲちゃんの現代アートの奥底にある深い悲しみに、私は戦慄を覚えた。シゲちゃんの作品には、若者なら誰もが考えていることをストレートに表に出してしまう面白いパフォーマンス、という文脈で単純に笑うことはできない何かがある」

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ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』を買いに、大きな蔦屋書店に行ったがなかった。姉の文が載った宮本浩次特集の別冊カドカワを見て、帰ってきた。自宅駅のツタヤで、『倫敦から来た男』をレンタル。

「体系よりも、一つ一つの発見である。その発見の中におのずと体系があるものならある。すくなくとも体系など問題ではないと見せることの方が真実の近くにいることになる。なぜかというと、真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」

この最後の「真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」に線が引いてあった。小島信夫『私の作家遍歴Ⅲ』のはじめの方。以前読んでいた時に引いたのだ。当然静止した答え、真実があるわけではない。その都度、集中力でそこに向かい、ついに何かをつかむようなことがある、つかまなくてもいいが、悟り、というのもそういうこととどこかで書かれていた。悟ったからもういい、ではない。むしろ、つかめなくてもそのプロセスだ。何度でも、その時々のやり方で。

折坂悠太『心理』が発売になった。よく聴いている。実家に泊まった時に眠れず、YouTubeを見ていたら、その前日に発売になっていることを知り、次の日買いに行った。実家から戻る途中でスーツを買った。とんでもないトンチンカンな女性が接客してくれ、終始話がスムーズにいかなかった。ほぼ全ての質問などを「ちょっと待ってて下さい」と奥の別のスタッフに聞きに行った。結構オバチャンだったが。そしてその夜店から電話があり、スーツの仕上がりの日付を一週間後のところ明日と書いて引取票を渡してしまいました、とのこと。

渋谷タワーで折坂悠太『心理』を購入。他にアヴァンギャルドのコーナーで日本の古い音楽などの断片など使用しているエレクトロニカというのか、冥丁(めいてい)という人?ユニット?の『古風』という作品が視聴して気になる。

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折坂悠太だけ買ってきた。

久々に『カンバセイション・ピース』を読みながら出勤している。冒頭から、世田谷のこの小説の主役とも言える古い家の、間取りから以前住んでいた家族構成、現在の住人についての導入となるところで、階段の手すりは老朽したがその階段の上から差す光は今も変わらないことや、現在の住人のひとりである大学生の小柄な女の子のゆかりが大柄な会社員の森中、綾子と話していると、それは自分が小さい頃にここで年上の従兄弟たちと話していた、その子ども時代が繰り返されているとか、私は自分のおばあちゃん家を思い浮かべながら、それを強く、リアルに感じた。

見ている他者の会話の光景、そのなかの小さな子供が自分や従兄弟の子供時代なら、なにも子供時代を欲望したり現在を否定することはない、というか「私」というものは記憶や、過去や現在の他者やすべてと繋がって、それらが「私」を押し出してここにあらしめてくれている、「私」もその他もどちらかがなくてもどちらも今のようには成立しない、いや逆に、どこに行っても、どんな時でも、実は一緒だ、ということに向かえまいか。

「私に分かってきたように思えることは、人間の愛とは、自分と異なるものを、自分と同じものだというふうに思うに至ることのようなのである。そのために人は遠くへ出かけて行って、自分とは別と思われるものをさぐり歩く」

『作家遍歴Ⅲ』を読み進めると、ここに過去に読んだ時の線が引いてあった。なんとなく数年前の同時にここで感じていたことは思い至るが、今はもっと別のことまで考える。

「作品を作り出しだり、仕上げたり、役者のことを考えたり、観客のことを考えたり、ギリシア悲劇だったら、コンテストの審査員のことを考えるうちに、自然にそれが人を愛し、神さえも愛し、けっきょく自分を愛することにもなったのである。手間や手続きは直接自分というものを離れたかたちで行われたから、これこそほんとの、まことに好都合のものなのである」

これは一緒くたにして間違いかも知れないが、芸術のプロセスであり、人を思うプロセス、つまり他者を理解しようとするプロセスであると思う。

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連休の最後の日にいつもの三軒茶屋TSUTAYAで『海抜』という日本映画が目に止まった。手に取ったら、キャストも監督も知らない人たちで作っていて、これは大学生たちが大学の卒業制作で作ったものだった。それがミニシアターでかかっている、ならともかくDVD化されてTSUTAYAに並んでいるとは珍しい。『パーマネント・バケーション』もジャームッシュの卒業制作だったと思う。

監督は高橋賢成という人で、2018年の映画。東京国際映画祭に招待され、ドイツの映画祭で受賞している。これを借りて、家に帰った。

スマホで予告編を見てみたら重そうな感じで見るのはやめておこうと思った。タル・ベーラなんかを部屋を暗くして3時間くらい流しておきたい、アッ、『サタンタンゴ』のDVDを買っておきたい、あれは7時間ある。そんな感じで、やっぱり『海抜』を再生した。

これがすごい映画だった。返却する前に、あの感じをと、もう一度再生しながら別のことをしようとPCを開いたが、もう映画を見てしまう。ひとつひとつのシーンをしっかりこの主題のために、捧げていく、それがひとつの作品としてある影をもって生まれてしまっている。若い作者が一本の80分の映画を作れる、それでも(だからこそ)、作品をしっかり自分から切断させていて、とても立派だしすでにここまで表現に真剣であることに感心する。

ちらっと見たインタビューでは劇場公開となりついに作品が自分の手から離れていく時泣いてしまった、とたしか監督が語っていた。なにより主人公のヒロシがいい。この人も大学生だと思うが、本当に今でもあの、特に出所後の俯き気味で無口だが凛々しい顔の、あのヒロシがリアルな存在感で私の胸のなかに蘇る。胸のなかなのかわからないが、もしかしたら私があのヒロシを帯びる、ということかも知れないし、忘れ難いというか、忘れてはならない存在として今はある。「もうすぐ世界が終わる」ということが信じられているらしい海辺の街の高校生。やはり私は、ひとつのことを思い続けること、なにか自分の感覚としてハッキリと感じられたもの、これを第一に信じること、それを十二年した男がヒロシで、それは十二年で加速する。弱まるのでなく、強くハードになっていくことで、ヒロシはなにかだった。そしてそれが最後に解かれたとき、ヒロシは斃れたのだ。

昨夜から眠れなくて、あれこれ本を思いつくまま引っ張り出して読んでいる。最近は宮沢賢治ちくま文庫の『宮沢賢治全集1』これは詩集「春と修羅」。『宮沢賢治全集9』これは賢治の書簡。あとは筑摩書房の『宮沢賢治コレクション1』で童話。それと昨夜はハーマン・メルヴィルバートルビー 」を一瞬冒頭のみ読み始め、今朝は小島信夫。『ラヴ・レター』を開くと面白くて、最近胸によぎってた『私の作家遍歴』。1、2巻は読んでいたが、最終3巻が未読で、読むととても面白い。久々の感覚にニヤリとすらなる。久々の感覚、というのは、単線的な文章でなく、水面に石をポンと放り込んだときに広がる波紋を追いかけてゆくような色んな方面にあちこちが接続しひとつひとつの物事が新しく捉えられる、実は人の頭とか意識はこういうことをしていてだから思考は誰しもやり続けるものなのだが、その「思考」が太く様々な文学作品や作家、時代の背景やさらに関連する作家…と密度で織りなされる。答えに向かうのでなく、予感に向かう、だから予感は姿を見せ始めるとまた大いなる予感が見え隠れしてきて、どこまでも止まない。それをこの長大な書物とした。なんて素晴らしいんだ。

「ロシアの知識人がみんな小説を読み小説を書こうとしたのは、小説でしか表現出来ない考え方をして生きていたからであると私は思う」

小説でしか表現出来ない考え方とは、矛盾する考えを同時にもっていることを表現することである。ロシアの国、ヨーロッパとアジアに挟まれたそこのことを、特にロシアの文学などとともに考えるが、全然それは一部というか、もっと緻密でスケール大、という矛盾を実践している。


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休日はいま転職活動をしていて、気になる会社をまず現地に見に行くということをしている。出版関係の業種になるので文京区とか、あまり行ったことのない土地に地下鉄などで行って二箇所くらい見て、帰ってくる。
今日は新大久保にある会社にまず行った。渋谷から副都心線新宿三丁目に行き、伊勢丹を覗く。ワイシャツを見るが気になるのはなく、紀伊國屋書店へ。二階の文芸書のコーナーの日本の全集の書棚に、小島信夫の全集を見ようと思ったがもう置いてなかった。全集というか「集成」という名で、たぶん10年前くらいから水声社により「批評集成」「短編集成」「長編集成」と順番に刊行され小島信夫の著作が編まれた。一冊一万円くらいしたが私も少し買った。
そこで、ハライチというお笑いコンビの岩井さんの本が渦状に、円を描いてたくさん平積みされていて、気になった。前作『僕の人生には事件が起きない』は10万部売れたそうだ。二作目は『どうやら僕の日常生活はまちがっている』というタイトルで、まえがきを読んだら気になった。すごく自然な人なのだな、と。
そこから以前の職場のあった花園神社の方を歩き、東新宿駅まで来て、さらに歩いて新大久保へ。歩いている時、並ぶ店や食べ物の匂いなど、タイやインドへ旅行していた時が今なんじゃないか、と一瞬錯覚して、アジアの外国の人が多いし料理も興味あるし、面白いかも知れないと思った。その大通りから路地を入った、急に静かになったところに一つ目の候補の会社があって、エントランスまで入った。
新大久保駅から今度は山手線に乗って駒込へ。はじめて降りた駅だった。小さな駅で特にランドマーク的なものもなく、小ぢんまりした印象。道を渡るととても良さげなメガネ屋があり、帰りに覗こうと思った。その先、7分くらい歩いて次の会社に。一階にとてもいい感じのカフェがあるビルだった。エントランスの先に会社の入口が見え、ガラス戸から出版社らしく本の並んだ明るい社内が見えた。
引き返してメガネ屋を見ようとしたら、営業みたいな人たちが挨拶を繰り返しながらメガネ屋に入っていったので、やめた。この先の会社と縁があればまた見れる。
すごく疲れていて、もうそのまま家に帰った。三連休の初日で、よく眠れず疲れがどっと出て、駅で買った今川焼を部屋で食べると睡魔が。まだ三時くらいだったと思うが、泥のように重たくなって眠る。時々目を覚ますと窓の外が少しずつ暗くなり、冬布団を干したままだったことがずっと眠りながら気になった。隣家に住む大家さんが気にしてピンポンを押してくるんじゃないか、たしか前にも急に雨が降ってきたさいそんなことがあった。窓の外のベランダで、暗くなっても干されている冬布団がすごく視線にさらされている、そんな恥ずかしさが眠りながらずっとあって、たぶんそれでも寝る、という状況がぐっすり寝入らせてくれるのだ、ヤバいやばいと思いながら、外は暗くなっている、何時なんだろう…と。
宮沢賢治を読んでいた。電車のなかでも顔がくしゃくしゃになるくらいいい。「風の又三郎」のシーンが、子供が山や川で遊ぶシーンが、自分の子供の頃をリアルに思い出させ、また山や川の自然のなかに入っているような、ただそれだけでも心地よい、身体が森のなかにあるような状態になる、小説ってすごい。飲み込まれていく。ワンセンテンスでグッと引き入れる。方言や地の文もかなりまともな文章になってない。
Wikipedia宮沢賢治を調べていたら、昔からすごく好きだったのに、全然違う賢治像が得られてきた。やっぱり相当苛烈な、めちゃめちゃな人生じゃないか。というか、「ハードコア」と感じた。灰野敬二さんが言う言葉だが、普通の社会には落ち着かないわけだ、こんなハードコアな人は。そして病気があったから、上京したり帰郷したり、今はこういう人はいない。今はたとえばカリスマ的な神話もない、それは誰もが文章でも音楽でも世界中に発信でき、また、誰しものプライベートな日常が価値あるものとして流布、奔流しているから、隠されたものなどないかのような錯覚が出来上がっているから。昨日だったか、柿内正午さんがブログで、「社会も他の人工物と同じくひとつの構築物として捉えること」と書いてあり覚えておきたい言葉だと思ったから書いておく。
これを昨日の会社帰りの電車の中で読んでいた。明日から三連休だという、その瞬間は後から思い出すと、なんかすごく貴重に思える。一日目がまもなく終わる。明日は友人とヨスカに行ってそれからどっか遊びに行く。その前に散髪とパーマ。
「日本蒙昧前史 第二部」が連載開始された、磯崎憲一郎さんの前作『日本蒙昧前史』を紐解くと、こうあった。
「もちろんこの頃既に、人々は同質性と浅ましさに蝕まれつつはあったが、後の時代ほど絶望的に愚かではなかった、解けない謎は謎のままに蓋をするだけの分別が、まだかろうじて残っていた」
全てが言葉で理解できるという、不毛な考え方は下らないよなぁ。語ることより、黙ることだ!

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写真は次の日行った江ノ島

『ドライブ・マイ・カー』


十五夜に『エンドレス・サマー』を聴いている。正確には十五夜は明日だ。ふとヨスカで開いた雑誌に石橋英子のオススメディスクが並べられていてそこによく見知った、親しみのあるクリスチャン・フェネス『エンドレス・サマー』の海に夕陽が沈むところのジャケがあるのを見つけて、久しぶりに聴きたくなった。

石橋英子は『ドライブ・マイ・カー』の劇伴を担当している。渋谷シネクイントで『ドライブ』のサントラがあったので、二子玉川シネマで『ドライブ』3回目を観た時に店員に聴いたら、よくわかってなかった。サントラは置いてないらしい。

『ドライブ』は、ある芸術作品との出会い、関わりを描いた映画なんだ、とわかってきた。劇中で、それぞれの登場人物と、ロシアの名作戯曲「ワーニャ伯父さん」との出会いや、長い関わりが描かれている。

パンフレットに寄稿している劇団チェルフィッチュ演出家・岡田利規が、映画ラストの「ワーニャ伯父さん」の上演シーンで、その上演を観客席で観ているミサキ、彼女のような観客にこそ演劇を届けたい、ということを述べていた。

ミサキは、広島の演劇祭に招待された、その多言語が入り混じって上演されるという新奇な演出の「ワーニャ伯父さん」の演出家・家福(西島秀俊)の広島でのドライバーとなる。

車のなかで、家福は女性の声で吹き込まれた「ワーニャ」のテープを繰り返し流す、それを毎日聞いて運転するミサキ。その声は、家福の2年前に亡くなった妻の声であることを知る。

また、出演者の一人、言葉を話すことができず韓国手話を使ってソーニャという少女役で出演する韓国人の女性の家庭に招かれ、家福とともに夕食を供される。彼女が今回、ソーニャを演じるためにこの舞台に出演する背景を、ミサキは知る。

そしてこの映画で名付けられない素晴らしい演技を見せる岡田将生が演じる、高槻耕史という名の売れた若手俳優。自分をコントロールできない彼も、家福の亡くなった妻との関係から、広島の家福のもとにやってくる。

ワーニャを演じるための、演技について、家福に食らいつく。ある秋の日、ミサキが休んでいた公園の一角で、屋外の稽古として出演者たちがやってきて稽古をする。「今、何かが起こっていた」と家福が珍しく評価した、ソーニャとエレーナ(台湾人女性が英語で演じる)のシーンを、ミサキも目撃する。

「今、何かが起こっていた。でもまだそれは役者の間でた。これを観客に開いていく。一切損なうことなく、観客にも何かを起こしていく」と家福は評していた。そのことを、あるバーで高槻が家福に質問するのだ。

家福は、これまで「ワーニャ伯父さん」を演出してきて、自身がワーニャを演じてきた。でも、もうこのテキストの恐ろしさに自分を差しだすことができなくなった、というようなことを言う。妻との関係、自身の弱さから、蓋をしたまま妻は秘密を抱えたまま亡くなってしまったこと、それらはチェーホフ(「ワーニャ伯父さん」の作者)のテキストに響いている。

ワーニャに、高槻は向かう。ところが、ある事件から、ワーニャ役(高槻)が不在になる。演劇祭主催者から「公演を中止にするか、家福さんが出るか」と迫られ「僕はできない」と家福は答える。二日の猶予が与えられ、妻との思い出の詰まった愛車・サーブで、ミサキの北海道の地元の村、そこを見せる気はあるか?と家福は運転席のミサキに問う。

ミサキは土砂崩れで実家が倒壊し、そのなかで母親が死んだ。唯一の身寄りであり唯一の友人でもあった母をそこに残したまま、ミサキは18歳で北海道を出てきた。

運転してきた車が広島で故障し、それからは運転手として一人生きてきた。その土砂に飲まれて倒壊した家屋の残骸が雪積もる斜面に覗いていた。そこに弔いの花を投げ、互いに深く腹の底で言葉にならなかった思いの澱が、はじめて言葉になってそれを発する本人も当惑するように告白される。

サーブに乗って広島に戻ると、映画のラストは「ワーニャ伯父さん」の上演だ。ワーニャを演じることを、家福はふたたび引き受けた。苦しい、苦しくて耐えられない。舞台袖で顔を歪める。一度も弱みを周囲に見せなかった彼が。けれど、弱さを吐露することを避けるのは、家福が直面した本当の悔いではなかったか。

こうして家福は「ワーニャ伯父さん」という作品、ひとつの芸術作品に向き合う。そして、ラストの、ソーニャがワーニャを抱きしめながら無声(韓国手話)で語る、おそらく戯曲が書かれて以来100年、数え切れないさまざまな国の人の心に残ってきたであろう台詞を、ともに出会い過ごしてきたミサキが、観客席で眺めているのだ。

芸術作品と人との関わりは、こうしたものだ、とそれを捉えるカメラが言っているようだ。たぶん、ミサキは何もそれらしい批評どころか、感想さえ言葉にしなくても。


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涼しい日が続いた。スーツの上着を着ていく日があった。九月に入ったばかりだ。夜は虫が鳴いていて、会社帰りの夜風が秋らしい。夏の終わり。

タイミングを逃していた、友達の店へ仕事帰りに行った。小雨が降っていた。窓の前の席に座る。店主である高校の友人が、この季節は高校一年の文化祭を思い出すよね、と言った。

彼が高校時代に付き合っていて、卒業後も、もうフラれているのに十年思い続けたその女性と、付き合う前の文化祭でイイ感じになっていた、その教室を思い出す、と。

季節の変化は、俳句や、さまざまな芸術のもとなんだと思う。「今ここ」が、繰り返される季節のなかの一幕でしかないと相対化される。いや、相対化なんて言い方じゃダメだ。それは新しい目覚めであり、死者の視線でもある、それを季節の変化によってふいに知覚する。

窓から外を見る(店は二階)。夜のはじまりの商店街の外れの路地を、主に帰宅の人たちが歩いている。路地の向かいの建物の明かりがあり、路面の水溜りにもその光が映っている。店の中は暖かみのある照明が満たし、雨からも守られ、高校時代からバンドをやっている友人が作ったプレイリストの音楽が静かに流れている。ザ・バンドトム・ウェイツギルバート・オサリバン

窓の上には本棚が据え付けてあり、たくさんの(友人やお客さんが持ち寄った)本。

今度雑誌に載るらしいが、あまり人が来すぎてもなぁ。


柿内正午さんのブログを読んでいる。毎日、原稿用紙3、4枚は書いているだろう。すごい面白い。『プルーストを読む生活』を買おうと思って、すでにジュンク堂など大型書店にはなくなっているのは知っていたし、柿内さんツイッターでこの本の取次書店がどれもステキだと言われていたので、渋谷のSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSという店に。ここになかった。文學界に特集されたばかりで品切れになっているようだった。以前のアップリンク渋谷があった通りのもっと奥にある、とてもイカしてる店だった。とても静かだった。お客さんは平日の昼間だが、多かった。

ウェブで現在のものが読めるし、まあよい。駅に戻るときにジュンク堂で、例の店の載ったオズマガジンを立ち読み。青山真治監督の『空に住む』がTSUTAYAに新作で出ていたのでレンタル。永瀬正敏も出ているんだ。

映画は非現実、非現実を求めるなら、日常を踏み外すことか、ブログも日常に隣接したフィクション、それを伴って社会を生きること。


文學界10月号には磯崎憲一郎の新連載「日本蒙昧前史 第二部」が掲載されている。久しぶりに磯崎憲一郎の小説を読んだ。全体の一部である文章のひとつ、たとえば今ランダムに開いた「晩秋の夕暮れ時だった、ゾウ舎の前から動物病院に向かってまっすぐに進み、木立の間を抜けて東園から西園への連絡橋「いそっぷ橋」を渡った」というここを、前後の脈絡とかにも拘らずただイメージする、そんな愉しさ。ギューっと具体的な事物が詰まった文章の、ただただひとつずつを、かつてどこかにあったそれとして思い馳せる、そういうことができる小説は実はあまりない。あるイメージにすでに塗られているから、みたいなことだが、そんなに本を読んでいないからわからない。

コントロールの外に出る、役に立つ・意味があるの外で「ただある」、「あるものはある」と、柿内正午と保坂和志の対談はずっと言っている。柿内さんのブログは昨日は小島信夫が引用されそれについて書かれていたが、小島信夫のようにコントロールを外れた作家は他にいない、ということ。書くことで外れることができる、そこへ子供の遊びのような無謀さでやれるのは、大人の社会生活と分裂する。

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