日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

日常と不在を見つめて

朝起きたら11時だった、職場から二時間前に来てたLINEを返すと、そのまま既読になり、即電話がきた。申し訳ない。

アピチャッポンの新作『memoria』が来年の3月4日公開されるとのこと。その数十分前のニュースを見ると、北米では配信・ソフト化の予定がなく、映画館のみでの上映になる、監督が「この映画は映画館で観ることが非常に重要であり、唯一の方法かもしれないと思っています。観客一人一人に、暗闇を受け入れ、夢を見てもらいたいと思っています」と語っているとのこと。

memoria』はコロンビアで撮影した映画で、アピチャッポンがその映画制作のためコロンビアに滞在しているそのドキュメンタリー映画をカナダの俳優(『A.Wアピチャッポンの素顔』)が撮影したのが2017年、さらに『アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ』というムック本くらい内容のある、たぶんアピチャッポン特集上映のためのパンフレットに収録されている映画制作集団・空族のインタビューでは、アピチャッポンが2016年に「次は南米だ」みたいなことをTwitterで呟いていたと言われている。

そこからすると2022年公開なら6年かかっているが、ソフト化するより「この映画は映画館で観ることが唯一の方法かもしれない」という、そういうものを作った。広く世界に轟き渡ることよりも、これだけの巨匠になってまだ映画の体験そのものをより深く追及しているそのアンバランスさ。カンヌも5度目とかなのに、まだ映画制作をはじめた青年のようなことで、レッドカーペットをティルダ・スウィントンらとともに歩く彼の目も青年みたい。

傑作を完成させること、まるで真実を静的なものとして固定しうるように構築し上げる、そんなことは芸術とは反対のことなのだ、宮沢賢治も、ゴッホも、通り過ぎるその世界のリアルな感触への手がかりをつけようと、外化しようとある種メモのように散文を書き、絵画を描いた。

「真実をつかむということは、ほとんどこれは熱狂とおなじだからである」と前回小島信夫を引用した通りである。だから宮沢賢治の詩が真実なのでなく、それを書いた賢治と同じようにというのは難しくともただその異常な詩を真に受けること、「信じることが本来の知性」だというそれをやること、その異物・外部を飲み込む熱狂のなかに、熱狂そのものが、真実にもっとも近いか、真実と言えるものがあるとすればそれである。

そして、『アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ』を作ってるのが映画配給会社ムヴィオラだが、ここの代表の武井みゆき氏が、このパンフレットを作っている。ムヴィオラは小さな会社らしく、求人が出ている。noteのブログに武井氏が書いているが、アピチャッポン映画の配給もしてきていて、『memoria』は別会社の配給らしいが、中国映画の『春江水暖』のnote記事など素晴らしく面白い。アピチャッポンのインタビュー記事もこの人が聞き手で、空族のインタビューもそうだった。

『春江水暖』は公開前にnoteで13話も詳細に記事を書いて、パンフレットはやっぱり丹精込めて作っていて、一人でこんなにも仕事していて、こんな熱量で、ワン・ビンの8時間ある『死霊魂』の配給とか、かなり奇特な方だ!といつも思うのだった。

それにしてもゴッホ展、いつも休日(平日)に行こうとするとチケット完売してる。前日とかその前に取ればいいのだが…。

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たまたまあちこちで、言及された佐藤真というドキュメンタリー映画作家の本。映画は見たことがなくて、知らなかったが、このタイトルがビビッときてアマゾンでポチり。たまたま開いたページでゴッホのことが書かれていた。『まひるのほし』というこの監督の映画は知的障害者の絵画など芸術制作にかかわるドキュメンタリーだそうだ。「一般の芸術家が、社会常識にとらわれないように日々その常識なるものと闘いながらも精神を病みきれない不幸にさいなまれているとしたら、知的障害者は、生まれつき社会常識にとらわれない幸福な精神の持ち主ともいえる」

「シゲちゃんのお母さんは、とても教育熱心な人だったという。母親のこの深い愛が、シゲちゃんには裏目に出て、街の女の子への執着となったのかもしれない。社会的には、シゲちゃんは人前で言ってはならない言葉を街中でどなりまくる「困った障害者」である。そしてある日、シゲちゃんのお母さんは追い込まれて自ら命を絶った。そのことを知った時、シゲちゃんの現代アートの奥底にある深い悲しみに、私は戦慄を覚えた。シゲちゃんの作品には、若者なら誰もが考えていることをストレートに表に出してしまう面白いパフォーマンス、という文脈で単純に笑うことはできない何かがある」