日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

133

 

文學界9月号に載っている神学者の対談でアリストテレスの『ニコマコス倫理学』という著作からの引用があった。

「「人ならば人のことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい」という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、「自己のうちなる最高の部分」に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。それは嵩として小さいが、能力や尊貴性においては遥かにすべてにおいて優越しているのだから。」

台風があり、突風で空がかき回されていた。湿度が充満した空が晴れると、深い海みたいな藍色に輝く空が夕焼けしており、地平線の方から黄色い光の粒子が舞い上がりグラデーションで藍色へ溶けていく。ガラス細工のなかに色彩を固着させたような鮮やかさの、日本でないような色の空を見て、『アンナと過ごした4日間』が見たくなった。スコリモフスキの映画で描かれる「緊張感」とはなんだろう。

「ロゴスは言葉と訳されることが多いですが、ロゴスは言葉に限定されるだけではない。むしろ、言語である言葉を包む「生ける意味そのもの」です」

先の対談で神学者の若松氏がこう言い、今ロゴスが失われている、という。本田哲郎は『釜ヶ崎と福音』のなかで、「ことば」と訳されるヘブライ語の「ダバール」について、それは出来事である、行為であると言う。「しゃべることは、人間のコミュニケーション手段のごく一部でしかない」

「ですから、「イエスは神のことばです」というときに、「イエスが、神さまについてなんといったのか?」ということよりも、「イエスが、どんな生い立ちで、どんな仕事に就いて、人々の仕打ちにいかに応じて、そして最後はどんな死に方をしたのか?」に注目することが大事です。それこそが神のことばなのです。」

書き写していると、カフカが思い出された。意味もわからぬが行為がひたすら行為を導く、意味に追いつかれないように書く文章=小説。やはり聖書は教訓や要約できるものでなく、圧倒的に個々の具体物の集合であると思う。そして本当の小説もそうだと思う。ストーリーや思想的なものを要約して伝えてしまえる小説は、なにをしているのか?「小説とは現実の後追いでなく、世界の法則との戦いであると同時に、法則の創出なんだ」(保坂和志

ツァラトゥストラ』はこう言っていた。「母が愛児のなかにあるように、あなたがたの真の「おのれ」が行為のなかにあるようにしてほしい。これが、徳についてのあなたがたのことばであってくれ!」

あなたの徳についての行為が、あなたの言葉である、と。ボルテージが上がってしつこくなってきているが、本田哲郎はカトリックの司祭である、その彼が「神父や牧師たちが語る説教は能書きにすぎず、御ことば(ダバール)を伝えるのは人と人との生身の出会いです」と言う。

私は夏バテか知らぬがダルくて、休日は集中力もなく家に一人いた。情けないダバール。

くどいし、ニーチェなのでよりくどいが、ここは書き出しておきたい。なんだか小説みたいだ。

「あなたがたの徳のなしとげるすべての行為は、消滅する星にひとしい。しかし、その星は一刻も進行をやめることなく、旅をつづけている。星の光と同じように、あなたがたの徳の光も、徳の行為が終わったのちも、なお進行をやめない。その行為が忘れられ、影響がなくなっても、その光はなお生きていて、旅をつづける」

荒川修作の死なない家を思い出す。こうして、自分というものは自分の外側にあることを知り、それは、たぶん世界の一部であり、ニーチェが言うにはそれは旅をつづけるし、荒川が言うには死はない。

たぶん誰しも言葉の無力さについて、年齢を重ねるほど気づいていく。いや、言葉の無力さではない。それは現実や世界の厚み、それへの畏れ、信頼が増していくことではないか。

 

f:id:tabatatan:20210819172200j:plain