日々と文学

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111.『ユリイカ』10〈星〉

休みの日、珍しい二連休だったが天気は悪かった。『気狂いピエロ』を流して本を読んでいた。食べ物も碌なもん食ってないし、部屋も散らかっていた。

起きて、片付けて久しぶりに洗濯して掃除機をかけ、ワイシャツをアイロンした。

昨日借りたら一本だけ2泊3日だったペドロ・アルモドバルの新作を忘れるとマズイのでもう返しに行き、青山フラワーマーケットミモザがあったので購入。この日はミモザの日らしく、花言葉は「思いやり、友情」だ。一本だけ買って花瓶に行けたら、部屋が花の香りだ。

雨降りのなか、TSUTAYAまで行くのにかなり遠回りして、ハクモクレンのある家を見に行った。咲き誇っている。満開だ。これは私に花が興味深いものとして好きになるはじめの花だった。これが咲いて春がくる、すると次にサクラの花期となる。

花びらは8枚、他のものも数えたが8枚、いや9枚のものもある。家で珍しくドビュッシーを流す。すると開いた『ツァラトゥストラ』、あれほどさっきまで倦んでいた下巻第三部で、突然こうした一節が訪れた。

「人生がわれわれを選んで、何か約束してくれるなら、—その約束を、われわれは守ってやろう!」

ニーチェを読みながら、ニーチェのもっとも唾棄すべきもの、ルサンチマンのことをずっと考えていた。できないこと、何をどうやってもできないこと、届かないこと、叶わないこと、それは過去と大きな繋がりがある、そんなことを考えていた。ルサンチマンの克服は過去を救済すること。

「「そうあった」ところの過去の一切を、創造しつつ救済すること」

ツァラトゥストラ』と並行して、佐々木敦『それを小説と呼ぶ』をずっと読んでいた。今も。これはずっと時間について、運命について書いている。入不二基義哲学書を引用しながら運命について書く。自由と運命の関係をサーフィンのビッグウェーブに乗ろうとする場面に喩えている。

「うまく大波に乗れるときには、かろうじて乗る側(ボード側)と乗られる側(大波)の間に力の拮抗が成り立っている。その拮抗とは、微細に見るならば、波の側の力の絶えざる過剰と、それに対する乗る側のバランスの危うい回復や微調整の繰り返しであって、一つの恒常的な安定が堅牢に確立しているわけではない。」

ボブ・ディランが確かノーベル賞に関して発表したコメントだったと思うが、ネット検索しても今は見つからなかったが「私は私の星を生きています。あなたもあなたの星を生きるように。」というようなことを言っていた。「星」という言葉くらいしか正確に覚えていない。ディランのコメントをあやふやな記憶で書き出す、なんか緊張した。

はじめの『ツァラトゥストラ』の引用に戻るが、「「そうあった」ところの過去の一切を、創造しつつ救済すること」、創造する、救済するというのは、行為において、未来に向けてなされるはずだ、普通私たちはそう認識しているだろう。創造し、救済される「過去」は、未来と質的に変わらないのではないか。意志して変えられるものは未来のこと、と思われているが、過去こそ創造、救済できるとき、過去を自身の「星」として新たに生み直す(捉え直す)ことができれば、未来こそ不変の星と一になるのではないか、そんな気がする。

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