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127 『未練の幽霊と怪物』チェルフィッチュ in 兵庫

職域接種でワクチンを打った。大手町で打ち、そのまま東京駅に歩いて、新幹線にライドオン。京都に行き、京大病院近くのジャズ喫茶に。ドアを開けると、そこにバーボンを飲んでいる友人が座っていた。久しぶりの再会で、沈黙に照れが生じるので、僕も珍しくよく喋った。画家で、京都に移り住む前は東京にいた。その頃は賞をもらったり、グッズに絵画が使用されたり、テレビに出たり活躍してたが、今は外に向けての活動より、自身の関心をしっかりと絵にしてゆくことに集中してるらしく、年下だが成熟してるな、と思う。あとは東京にいた頃の、いかにも才気走った、というか殺気立った(?)鋭い言動は、緊張がほぐれて大らかさ、朗らかさになっていたように思う。街には空が開け、鴨川が流れて河原に人々が集っていた。

チェルフィッチュの舞台公演『未練の幽霊と怪物』が兵庫県立芸術文化センターであるから、関西に行ったのだ。京都で一泊し、次の朝、大阪経由で兵庫へ。ホテルはピカピカで快適ですごくよかった。京都駅前のリッチモンドホテルだ。安かった。ホテルの部屋にあったミネラルウォーターのペットボトルをカバンに詰めて、チェックアウト。外は雨が上がっていた。結局この日は一度も傘を差さなかった。昨夜、画家の友人と鴨川沿いの、京都で三本の指に入るという居酒屋で飲んでた。ワクチンを打ったと言うと、すでにアルバイトで医療従事者に該当する友人は二度接種していて、筋肉痛になる、と言っていたとおり、腕を上げると肩の筋肉が痛くなりはじめていた。その居酒屋で。

西宮北口という劇場のある駅で降り、11時を過ぎていたのでランチにパスタ屋に入った。人気店らしく私が入ったあとは満席で、ホウレンソウとパルメザンのトマトソーススパゲティをサラダ、アイスカフェオレ、ジェラートのセットでいただく。うまし。RYURYUとかいう店。

店のそばに巨大な阪急百貨店があり、ぐるっと。お土産を買おうかと思ったが、それより舞台に神経使おう、とそれらはいったん忘れた。チェルフィッチュにとっては珍しい、森山未來石橋静河栗原類片桐はいり、そして七尾旅人など、有名な人がたくさん出ている。劇場もかなり大きく、チケットも高額。僕は二日前に予約したから、二階席だった。オペラグラスというか、双眼鏡を使ってる人もいた。能、それも夢幻能を下敷きにした作りだ。下敷きっつうか、夢幻能のオリジナル作品。たぶんシテが幽霊となって舞う時に能面を着けていた(視力が悪くてよく見えなかった)。アンプに繋いだ楽器を弾く人が三人、舞台上にいて、息、とか、呼吸、間を大事に音楽、七尾旅人の謡、役者の舞、が繰り広げられた。

開演前に、感染症対策として、いくつかの注意点がアナウンスされた。別にどこでも何度も聞いた内容だが、それをアナウンスしている声が岡田利規だった(チェルフィッチュ演出家)。それはもう舞台演出のひとつなのか、と思わせる。無駄に丁寧な言葉遣いはせず、「〇〇はやめて下さい」「〇〇にご協力下さい」など、説くように言う。演出ではないがメッセージを感じた。あと、客席が暗くなりきらなかったのは、能上演だからか? 銀座で能を見たとき、能楽堂全体が明るかった。今回は終幕の際に一度だけ暗転しただけだ。そしてそれから、カーテンコールとなる。

ところで、一泊二日のこの旅行に持参した本は『ブラック・チェンバー・ミュージック』、阿部和重の新刊だ。かなり分量があり、内容もヤクザ、北朝鮮からの密使、謎のヒッチコック評論、神田の古書店など、やはり密度があるものだ。読んでいて、文章はやっぱりどこかおかしいと思う。思考が、小道具のように切り貼りされているような不自然さで、阿部和重はずっと読んできたが、そこが面白いというか、阿部和重の信頼に足るところなんじゃないか、と新幹線のなかで感じた。でも、阿部和重の映画評論などはちょっと違って整然として緻密な理論であった気がする。とにかく行き帰りの新幹線の中で読んでいて、また帰ってきて読んでいてふと気付かされるのは、純粋な小説の小説たる面白さ、可能性などから、もっと阿部和重の信じるところ、好きな世界、これがオレのカッコいいと思うフィクションだ、というのが体現されている、そういう成熟(?)ぶりなんじゃないかと思った。

前作の大長篇『オーガ(ニ)ズム』でも、阿部和重なる中年男性が主人公で(『ブラック・チェンバー』も自由業の中年男が主人公)、世界規模の危機に巻き込まれて、目の前の人を救わねば、という無思考から、いやいやながらどんどん危機に陥っていく。阿部和重(著者)の美学は、アホだけど、映画や小説などに入れ込んで決してまともな大人じゃないけど、命の危険にさらされようがやるものはやる、まともに考えたら即終わらせられる回答はある、しかしそういう思考法を持たない、無思考。それが大げさに言うと世界への信頼などで、阿部和重はやっぱりそれをオレはいく、とあるときから使命を受け入れたんじゃないか、と気づいた。正直、初期から『ピストルズ』辺りまで、もっと作品に小説の可能性があったのではないか、と思ったりもする。でも、僕は、今はその大げさだが使命を受けた、あれもこれもやれるでなく、これしかできないと腹をくくった人が眩しく、魅力的に見える。そんな人と話すのが嬉しい。狂気でなく正気? 京都の友人ともそこを話していたのだと思う。34の誕生日を迎えて、わかってきたことがある。

『未練の幽霊と怪物』で、長く舞が舞われる。それで森山未來などがキャスティングされてると思った。僕は13時の回を見て、あと夜にも同じもう一公演がある。神奈川県の劇場で初演され、兵庫に来ている。カーテンコールのとき、深々とお礼する出演者たち。一日、二度、あれをする。特に七尾旅人なんかはミュージシャンで、同じように毎日やる、ということは珍しいことだと思う。そこに寂しさを感じた。古典能を見たとき、それは感じない。むしろ形を繰り返すことの計り知れなさを感じる。僕の心理が反映されてしまっているのか。僕は、いつも不安を感じている。それが人に伝わるから、友人もできない。小さな頃からそうだった。大好きな女の子に告白されても、目も合わせられず「友達からで」と言って逃げた。そんな人間の好む芸術なんて。心から素晴らしいと思う芸術も、私が好むというだけで、つまらなく感じないか。でも、それはない。私は単に、外巻きに物事を見ている。中に入っていけない。だから中で熱烈に支持されてるものの下らなさが、わかったりする。でもそれは賢者なのか? 本当に。

阿部和重の小説は純度の高い阿部和重のメッセージになりつつある、と思われる。それがハードになればなるほど、誰かに本当に伝わる? それは頭のよさや、才能とも少し違う。ように思う。京都の友人は、「何かを判断する時、こう見た時はこうだが、別の見方をするとこうだ、と相対化したがる人は嫌いだ」と言ってた。それが僕の心に残っている。

京都の居酒屋の、開け放った戸から雨上がりの鴨川の湿気の入る、汗ばんだ熱気が心地よく思い出されている。

 

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