日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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次の休み、朝起きて、パンを買いに出たのか、覚えてないが、いや、コンタクトレンズをもらいに行ったのだった。処方箋が切れていて、眼科にも行って、その帰り、路地の角に小さな花屋があり、そのさりげない店構えが洒落ていて今まで利用したことはなかった。なんとなく上級者向けなイメージがあった。そこでオレンジ色のダリアを一輪買った。帰りに、ベーカーバウンズでハンバーガーをオーダーしてきた。何を食べたいのか、なにも浮かばない毎日であった。ベーカーバウンズは、美味しいものを食べる、それ以上のイベントだ。これを食べて出直し、そういうフードだ。いつもより早く、店から出来上がりの電話があり、取りに行った。ホントに店が、活気がある。ご利益をもらってくるような、というと大袈裟か。とにかく、いい仕事を、日々繰り返す、という敬意を抱ける店。いつも駅への行き来で通る道にあるが、この店を見て、胸が引き締まる。早朝から、仕込みをやっている。

ごちそうさまでした。

食べ終わって洗濯物を干して、家にいても何も手につかないから、渋谷に。ハーモニー・コリン『ビーチ・バム』をヒューマントラストに見に行くのだが、上映は18:45だ。何か服でも買って、お金を使いたかった。ところが、渋谷に着いてもとてもそんな気分になれず、喫茶店に行こうとしたが、なかなか入る店が見つからないまま、ぐちゃぐちゃの街を1時間くらいさまよった。慣れ親しんだサンマルクを見つけて入った。『デッドライン』を少し読んだが、店に落ちつけず、出た。タワーレコード環ROYの新譜を購入した。いよいよ、映画館に行って、ようやく頭がまとまってきた状態で、早めに行ったカウンターで再び読書をした。『デッドライン』とても面白い。哲学の本や、著者の他の本も読みたくなる、そして率直さ、頭の良さに感心。著者の『勉強の哲学』で、これから自分は「制作の哲学」を書いていくのだ、ということが書かれていたが、たしかに色んなわからない領域への抜け道、風穴を、解答のわからない「好奇心」のまま配置する、そういう工夫が、単純でない芸術作品とさせてゆく。その理論であり没理論、というか理論の無効化、また新たにその構築…、という矛盾をもってしか語り得ない芸術の領域を、「制作の哲学」で書いてほしい。読んでみたい。これからも読んでいくだろう、という作家だ。

前回、その顔を8年間、まったく著作に触れることなく覚えていたと書いたが、保坂和志も、まだ知らないとき、文芸誌の対談で顔がでていて、ああこの人は間違いのない面白い小説を書くんだな、こういう人もいるんだな、となぜか思ったことを覚えている。その後、私にとって最大の作家となった。今でもそれは変わらない。そういった、感じる部分を研ぎ澄ました日々を送りたい。それは、能におけるワキのように、一般的な社会からはどこか疎外を感じる人だ。それは悲しいけど、多くの人に理解されない、その分、友人や、伝わる人にはひしと伝わることがあるだろう。それが、私が触れてきた芸術であるのだから。

『デッドライン』で、主人公は大学院の修論ジル・ドゥルーズで書くという。ドゥルーズは、自由になること、それは動物になることだと言っているらしく、「芸術を通して人は動物になる」。DOPENESS。


またまた千葉雅也の『ツイッター哲学 別のしかたで』を買ってきて読んでいる。

ツイッターには、何かを仮にやってみている様子、何か新しい課題に直面し、別のしかたで思考や感覚を摑もうとする様子が間歇的に流れてきます。工事現場やアトリエの一角が明滅している。」

こんなふうにツイッターを捉えていて2009年からずっとツイッターを続けているそう。この本にも、それらツイートが集められている。まだ読みはじめだが、たくさんいいことが書かれていて、文化論研究者に向けて「クラシカルな研究においてはごまかされがちな自意識のこじれ」を露呈させる「軽薄な」現代大衆文化論を書くのを義務にしたらどうか、という。これはぜひメモしておかないと、と思って。

これはけっこうクラシカルな研究者たちに鋭く差し向けられた刃みたいなひらめきだと思ったが、待てよ、「低く見積もってはいけない」という題のついたツイートにはこうある。議論をエレガントな攻撃性でやるには、相手の理解力・文脈力を性急に低く見積もってはいけない、論戦は相手をできるかぎり持ち上げ、その(仮想的に持ち上げられた)相手をぶっつぶすのだ、と。

だから、たぶん、千葉雅也は、クラシカルな研究者が軽薄な大衆文化論をやって、自意識のこじれが露呈されて、それでバカだ、と笑ってぶっつぶすことがねらいなんじゃないんだ。こじれを露呈してみせる、そのこと自体が新しく興味深いことなのだ、とも考えられる。それはもはや文化論ではなく、研究者自身のなにかになってしまうが。でもその、文化論でない何かになる、それがこの本の副題「別のしかたで」にも通じて、それは『勉強の哲学』でも言っていた著者の深い勉強とか、芸術に通じるやり方なのだ。

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