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千葉雅也『デッドライン』のこの生活はなんだ?

大学に行って、世田谷の家賃12万の部屋に一人暮らしして、朝起きるとまずドトールに行ってジャーマンドックを食べてから勉強して、午後に大学に行って、ドゥルーズだのフランスの現代思想、哲学を学び、映画研究会の手伝いをし、暇な夜は友人を誘って明け方までドライブする。また、新宿二丁目のゲイバーに通って遊び、気になるイケメンに声をかけ連絡先を渡し、ハッテン場に赴き男たちとセックスする。モースの卒論を書いて…、これでまだ冒頭30ページだが。

こんな世界は知らない。金とか、そういうことじゃない。私は望めば望むほど、遠くへ押しやり、その望みは絶対的な望みとして、叶えられない渇望としてもはや星のごとく遠くで瞬いている気がする。でもそれこそ欲のかきすぎ、思い込みすぎだよな。気になる女性と話すとか、そういうごく他愛もないはずのことなのだが…。

「普通の男子になることができなかった。普通であること、男子であることが、僕にとってずっと巨大な謎なのだった」

これはプルーストも書いていた、自身の「宿命」のこと。

「幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像のなかにある存在ばかりを追うのが、私の宿命だと想い出させてくれた」

この「憧れる」というやつだ。プルーストはいつも恋愛では、相手の女性さえ見ていない、相手を通して勝手に膨らませてしまう女性の幻影を、つまりどこまで相手を知っても叶えられることのない、幻を見ている。

「僕はその手前で立ち止まり、「普通の男に見えるイメージ」に憧れて、そのイメージを仮設し、それに欲情してしまう」

『デッドライン』のこの場合、というかプルーストも、外から見れば色々と望みを実現できている。『デッドライン』もそうだが、『失われた時を求めて』はホントにそうで、こんなに何でも当時のフランス、パリの、物質的にも、それより人気とか才能とか羨むものを集めたような人はいない。ただ、プルーストにとって、追い求める幻影はそれでも得られない。この二つの小説を書く人は、ともに「幻影」を追い求めている。

これは前回の『想像』という映画についての問いと繋がってくる。

たぶん、私は考えることと行動することとのバランスがおかしくなってしまっている。「良い子症候群」の「良い子」がさらに芸術という果てなさ(答えのなさ)にまで突破している。想像をするが、多くを想像するが、当然他者の反応はその通りにはならない、当たり前のことだ。また、いちいち想像してからでは、会話が成り立たない。こんなことを書いていて、大丈夫だろうか。


今、ジャームッシュ『パターソン』を繰り返して見ている。本当に傑作。音響や日常の映像の重ね方などで、こんなにも人と人の「近さ」とか、物理学ではない時空の在り方を表せてしまう。それでいて、一本の作品としてオリジナルにまとまりがある。ラストの永瀬正敏の顔、かっこいいのだ。日本に永瀬正敏がいてよかった。

「近さ」と書いたのは、『デッドライン』で、大学院の教授が荘子の一話から説いたもので、「それは主観だ、主観にすぎない」という言い方は、それは個人がひとつ、ひとつ閉じた存在である世界観を前提にしている。そうではなく、「「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は、私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです」

そして、こう。

「真の秘密とは、個々人がうちに隠し持つものではありません。具体的に、ある近さにおいて共有される事実、それこそが真に秘密と呼ばれるべきものなのです」

しびれる。この「秘密」の概念は、リアルだ。

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