日々と文学

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チェーザレパヴェーゼの『美しい夏』の冒頭を別の本での引用で読んで、あまりにも目が覚めるような小説の、世界への楽しみに満ちたビビットさを感じ、近場の書店に行ったら岩波文庫で3冊、パヴェーゼの作があったが『美しい夏』はなかった。『月と篝火』という最後の長編小説と言われる作を買ってきた。

他にも本を読んでいて、すぐには読まないつもりだったが、ずっと引用で読んだ『美しい夏』の冒頭が小説の面白さ、としてある感触を私に残し続けていて、『月と篝火』を開くと、冒頭がやはり今の私とすぐに繋がる。

イタリアの寒村に、私生児として育った主人公が、人生の紆余曲折を経て、故郷の村に帰ってきた。ガミネッラという村らしく、他にも近隣のカネッリだの、バルバレスコ、サルトや、アルバ、モンティチェッロ、ネイヴェなどまったく聞いたことのないイタリアの土地の固有名がたくさん出てくるところから、妙にその名がイメージを惹きつける感じがして高揚するが、その第1ページから2ページにかけて、こういう文があった。

「この世界をめぐり歩いてすべての肉体が善であり等価値であることをぼくは知ったが、まさにそれゆえに人は骨身をけずって根をおろし、土を起こして村を建てようとつとめ、おのれの肉体を価値あらしめて、それが単なる季節のうつろい以上につづくことを願うのだ。」

小説というと、カフカプルースト、はたまたベケットボルヘス、とか「誰々的」の大きなバリエーションがあって…などとわかったつもりになっていると、こういう文章が小説の面白さを改めて垣間見せてくれるようだ。

どんな小説も、映画も、音楽も絵画も、その作品に使われる具体的な場所、時から、それを体験することを通じて、私の現在のこの世界を捉え直すことに繋がっているはずだ。芸術とは、誰も言わなくてもそうで、たとえば「愛とは〇〇である」と言っても、言葉の意味はいかようにも理解できたとしても、経験として感じられない。「愛とは〇〇である」は、私の現在のこの世界とは呼応しない。それを意味でなく、具体的な世界として提示するのが芸術で、保坂和志はこれをフィクションと言ったりしている。

私は特にそのフィクションに興味があるから、『去年マリエンバートで』とかが純度の高い、よりハードコアな芸術だと言いたいといつも思っている。でも今は同時に、目の前の世界以外の、芸術作品、フィクションに没入することに抵抗があってなかなかそれが拭われない。

本も、それを読んでいる環境の他の音や視覚や情報と同等くらいの注意力で読んでは思案し、別の事がらに思案がゆき、現実の目下の関心ごとなどに戻ってきて、という感じでまるで進まないし、それを維持することにきっと私の本能が重きを置いている。映画も物語のしっかりしたものは見ず、けれど昨夜はペドロ・コスタ『ホース・マネー』を部屋で流していて、少しリズムを取り戻したようだった。コスタは、それこそ作品の秩序に触れるものだから、流しているだけで、私はきっとなにかを掴もうとすることができ、それを理解しないでいられるのだ。未だにコスタの映画の楽しみ方はよく分からないが、未だに素晴らしき本として日々何度も思い出しているコスタの日本の学生へ向けて話したものをまとめた本『歩く、見る、待つ』での言葉とともに、私の芯が響き合う、現在のこの世界を前にしている私にその芯があることを思い出させながら。