日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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先週のブログを書いていて、現在の私が前にしている世界と、別の世界のあり方を体験として提示する芸術は、だから私の芯を思い出させる、と最後に書いた。

芯というのは、根、何の決定も受けていない、いわばゼロ、無の状態。

何度も引用してきた『失われた時を求めて』の画家エルスチールについての一節。

「描く前に自分を無知の状態におき(自分が知っていることは自己のものではないと考え)実直にすべてを忘れようとする」

また保坂和志が「わからないことはわかることと比例して増えていく。何かをわかっている状態はたいしてそれについてわかってなく、深く考えてわかればわかるほど、わからないことが増大してくる」と言っていた。

最近では、中原昌也ツイッターで「造詣が深い人、になんざなりとうない!!昼間から真っ当な仕事もしないで、映画だの音楽だの小説だの美術にうつつを抜かしているのは、訳がわかんなくなるためなんだよ!ただ混乱したいだけ。」と書いていた。

こういうのをアガンベンとか西洋の哲学は「潜勢力」とか言うのだろうが、今は言わない。

ただこのゼロ、当てのなさ、根の状態があった、と思い出させてくれるものが芸術、と私は書いたのだろうし、中原さんもそういうことを言っていて、私もそれを覚えていたのだろう。

パヴェーゼ『月と篝火』を、長野から戻ってくる高速バスで読んでいた。

「政府のやり方や神父の説教についていくら文句を言ってみても、そのあとでそういう迷信(月や、篝火)をお祖母さんの、そのまたお祖母さんたちみたいに、信じているのではどうにもならなかった。そしてそのときだった、落ち着きはらってヌートがぼくに言ったのは、害をもたらすものだけが迷信なのだ、と。それゆえ、もしも月と篝火をつかって農民から奪い、彼らを闇におくような者がいれば、その人物こそは無知なる者であり、広場で銃殺しなければならないだろう。しかし、その話をするまえに、ぼくは農夫に戻らねばならなかった。ヴァリーノのような老人はほかのことは何も知らないだろう、だが大地のことだけは知っていた。」

こんな文がいい。

『月と篝火』はたぶんすごく読みづらく、ヘンテコな文章ではないのだが、普通の文章から三分の一くらい言葉を取ってしまったような、とびとびの感じがする。風景も、具体的に、たくさん、繰り返し書かれるが、空間としてハッキリ全体が繋がらない。時間も、無時間と感じてしまうところがあり、それらはこうした文がよく言い表している。

「ぼくにとって、過ぎ去ったものは季節であり、歳月ではなかった。ぼくの身に触れてくる事物や会話が、昔のものと——ぼくが世界へ出て行くまえの、土用の暑さ、市場、かつての収穫などと——同じであればあるほど、ぼくには喜ばしかった」

そして、

「たぶん彼はつねに月を信じていたのだろう。けれどもぼくは、月を信じていなかったから、要するに季節だけが大切であり、おまえの骨をこしらえたものは、子供のときにおまえが食べたものは季節だ、ということしか知らなかった」

先週のブログで書いたが、語り手の「ぼく」はどこで、誰が産んだかもわからない私生児だった。この寒村から出て、アメリカなど世界を回り、金持ちになって40歳で故郷に戻ってきた。寄る辺なさ、むなしさがこの貧しい村を描写してゆくが、この村で育った幼馴染でずっと村にいるヌートは、月を信じている。

信じていない「ぼく」に歳月はない。これはゼロ、芯、根の状態でたゆたっている、だが、注目したいのは、虚空な感じの「ぼく」の語りは、月を信じていないのだ。具体的な風景たちが空虚からひとつのあるまとまり、秩序を得るには、信じる者の目が必要だ。芸術はそうであると思わせられているものから解放し、自分でものを考えるゼロ、芯の状態に引き戻してくれる。そっから信じるもの、はまだないのだから。


あとこれもも一度引いておこう。

「というのも私利私欲なき教養というものは、人がそれを実践しているところを目にすれば閑人の笑止千万な暇つぶしに見えるだろうが、忙しい人たちがよくよく考えるべきは、自分自身の仕事においても、その同じ教養こそが、もしかすると自分よりも優れているわけでもない司法官や行政官たちをずば抜けた人間たらしめていることであり、その人たちのすばやい昇進を目の当たりにして「大へんな教養人、じつに傑出した人物だそうですね」と言って脱帽せざるをえないことである。」

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