日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

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好きな人を憎んでしまうのは悲しいことだ。知ってることが多い分、それは弱みにもなる。

なぜ知っていることは、軽んじられるか。高を括るというのは大人になればなるほど陥る。目の前の出来事より過去の経験を信じる、それでも目の前の出来事を見ることはいいことだ。

保坂和志が、「じゅんかん記」だったか言う新聞連載エッセイで「ぼくの獣医さんは名医だ」と書いていた。助手の人たちに「あぁですよ先生、こうですよ先生」と言われて「そうだった…」と指摘を素直に受ける。そういうのを言わせないのは、間違いに陥りやすい。たくさんの視点、脳みそが連携してる方がよいはずだ。

自分が思い込んでいたことが、まるで違っていた、これは文章で書くだけだととても楽しいことのようだが、強く信じ、思い込み、それをもとに行動し、生活の支えにしていたようなことは、世界が壊れることと同じだ。

一人で強く信じていたばかりに、他人に共有することができない。いっそ、死んじまったほうがましだ。そう思って歩いていた。誰も悪くないはずなのに、思い込んでしまうあまり、勝手に想像をたくましくしてしまうあまり、あるとき現実は、その日々のただひとつの支えを、打ち砕いてしまう。打ち砕いて、平然と進んでゆく。それが、危機的体験となるから、その恐怖はその後も追いかけて、恐れるあまりもはや行動ができなくなり、するとまた想像だけが大きくなっていく。その想像は、ふつう行動や関わりのなかで、現実とのバランスをとりながらその人に適正な自己像や世界像を取るが、行動と結びつかない想像だけの供給は、現実からはどこまでも遠のく。それはどれほど慎重に、失敗を恐れて大切に守っても、他者との関わりでふとしたことから、勘違いだったことを暴かれる。その人にとって、世界は何のまとまりも、文法も持たない、バラバラの情報の混沌となる。

『佐々木、イン、マイマイン』という映画を見た。観ている途中、会社の後輩から電話が来て、仕事でトラブって困っていると。電話と、LINEのやりとりで対応は終わらせ、これなら明日も目が覚めて、起きて、出かけられるかも。サンキュー藤原季節、サンキュー後輩。

映画が素晴らしくて、観終わって夜の外に出た。後輩のLINEをチェックして校正技能検定中級の目でトラブル報告書の直しを指示。スマホの夜道に光る画面に雨粒がたくさん落ちてきた。散歩を切り上げて帰る。明日も朝はやい、と寝る支度をする。

本当の知性は信じることである。それは、恐怖から身を守るために状況を疑う、とかそういう知性ではないらしい。その知性、想像力は、実践され生活化されるべきである。それが「信じる」ということか。でも、自身の経験に嘘をつくことはできないだろう。

 

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