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121 アルベルチーヌ

プルーストの恋愛は「相手の容貌や人格」をなんら対象としていない。恋心とは、手に入らないものを求める妄想にも等しいあがきなのだ」と『失われた時を求めて』9巻の「訳者あとがき」で吉川一義氏は断言する。

プルーストの「私」はアンチ・ヒーローであり、『失われた時を求めて』はアンチ・ロマンなのである」

10巻に入っても、もう全然愛していない、というアルベルチーヌをわがままで「私」の実家に同居させ、行動を彼女の友人の女性に監視させ報告させて、それでも疑念がなくなることはないことを、ひたすら検証して書き続ける。目を覚ませ!止めてしまえ!と言いたくなるくらいだが、やっぱりよくぞここまで書いてくれた!

「この部屋やこの書棚の存在する世界、そこではアルベルチーヌなどとるに足りないものである世界、もしかするとこの世界こそが知的な世界であり唯一の現実なのかもしれない、私の悲嘆などは小説でも読んだときに生じる世界にすぎず、それをいつまでも変わらぬ悲嘆として生涯にわたり持ちつづけるのは頭の狂った者だけである、もしかすると私の意志をほんのすこし動員するだけでこの現実の世界に到達でき、まるで紙を張った輪をつき破るように私の苦痛をつき抜けてこの現実の世界へ戻ることができ、そうなるとアルベルチーヌがなにをしていたのかなどといったことは、小説を読み終わったあとでは架空のヒロインの行動など意に介さなくなるのと同じで、なんら気にならなくなるだろう

長い引用ですみません。

でも私が今回書き記したかったのはここじゃない。

「しかしその恋人たちは、私の恋心の似姿であるというよりは、むしろ恋心を芽生えさせ、それを絶頂へと至らしめる特性を備えていたのだと考えるべきだろう。その恋人たちを眺め、その話を聞いているとき、私は恋人たちのうちにわが恋心に似たもの、その恋心を説明できるものなど、なにひとつ見出せなかった」

これはすぐには納得できなさそうだ。だが、よく経験と合わせると、やはりそのようなのだ。というか、次のような書き方は、よく考える前に何か感触があって、だからよく考える。するとやはりそのようだ、と思える。

「それでも私の歓びはひとえに恋人と会うことにあり、わが不安はひとえに恋人を待つことにあった。あたかも恋人たちとはなんの関係もない霊験あらたかな力が自然によって付随的に恋人たちに授けられ、この電気仕掛けのような霊力が私にまでおよんで私の恋心をかき立て、私のあらゆる行動を左右し、私のあらゆる苦しみをひきおこす結果となったかのようである

一度恋をしてしまうとこのようなのだ。どれほど幻滅しとるに足りないと頭でわかっても、電気が反応してしまう。

「しかしこれと、この女性たちの美貌なり知性なり気立てなりとは、まるでべつのものである」と書かれている。

「私としては、こうした恋心において相手にしているのは、まるで謎めいた神々に訴えかけるように、女性という外見をまとい付随的にその女性に寄り添っているこのような目に見えない力なのだとさえ思いたくなる。われわれがその好意を必要とし、それとの接触を求めながらそこに肯定的な喜びを見出すことのできない相手とは、この目に見えない力なのだ」

この、「接触を求めながらそこに肯定的な喜びを見出すことのできない」ことが、はじめに訳者あとがきから引用した「妄想にも等しいあがき」か。

「会っているあいだ女性は、われわれをこうした女神に引き合わせるだけで、それ以上のことをするわけではない」

また、これらは主にアルベルチーヌとの関係から出てきた考察で、過去にステルマリア夫人やゲルマント夫人への恋心を思い浮かべた「私」は述懐する。

「幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像のなかにある存在ばかりを追うのが、私の宿命だと想い出させてくれた」これはあとがきにて「これは「私の宿命」であるばかりか、シャルリュスの宿命でもあり、スワンの宿命でもあったのではないか。こうした宿命の空しさに疑問をおぼえた「私」が「大いに幻影を愛したあのスワンなら、死ぬ前にこの問いに答えることができたかもしれない」と言うのは故なきことではない」

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