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(103)『ユリイカ』2

はじめに書いたように、アキヒコはそのバスに乗って4人で旅に出ている。その時、助手席みたいな席で、運転手の沢井に話す。おれも殺されそうになったことがある、と。それは青山監督の長篇デビュー作とされる『ヘルプレス』の出来事だ。ヤクザに殺されるところを浅野忠信が演じる友人ケンジに助けられた。そのヤクザ、ヤスオが、『ユリイカ』でシゲオを演じる光石研だ。

そのアキヒコのラジカセが、彼をバスから降ろした後に、その助手席のダッシュボードに残った。ナオキもその時は警察署の中だ。ナオキはいつも俯いていて、いい存在感を放っていた。一言も喋らなかったが最後にひとつ、意思を示す言葉をつぶやいて、朝明け方、沢井と2人で警察に出頭した。あの場面が10年前に観たはじめは、一番悲痛だった。

いや、ナオキは最後にコズエを殺さないという意思を示すことを言うが、その前に「なして(人を)殺したら、いけんとや?」と言った。ナオキは連続通り魔殺人犯になっていた。

「いけんとは言っとらん」そう言って沢井はナオキの手にしていたナイフの刃をつかむ。血まみれの手でナオキの顔をゴシゴシやったから、夜が明けて2人で警察署に出頭するときナオキの顔はジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ』のジャン=ポール・ベルモンドがそうなるようにドロドロに血塗られていた。その黒い顔が、沢井に最後に言葉をかけられて目を向けると、白い目を2つ浮かび上がらせた。

4人で「別のバス」で出発した時(その時すでにアキヒコのラジカセはダッシュボードにある)、「俺さ、ていうか、俺もさ、殺されそうになったことあんだよね」とアキヒコが助手席で言う。「友達の知り合いのヤクザに、拳銃で」

沢井が「その後、そこに行った?」と聞く。4人は出発してまず、バスジャック事件の現場となった場所にいき、「こっから、出発たい。よーっと見とけよ」と沢井が言っていた。アキヒコはこの沢井の問いに、こう言うのだ。

「行かないよ。行くわけないじゃん。それって犯人は現場に戻るってやつでしょ?俺犯人じゃないもん。沢井さんテレビの見すぎだって」

『ヘルプレス』を観直したが、アキヒコはよりヤバいヤツだった。暗がりのトンネルから突如、ケンジー!と言って現れる。ウザキャラはより過激で、『ユリイカ』ではよい青年に育った、という印象だ。この斎藤陽一郎演じるアキヒコを、青山真治はオリジナル脚本作品の『ヘルプレス』『ユリイカ』『サッドヴァケイション』で描きつづけている。彼の物語も響いている。

私は久方ぶりに4時間近くある大作の『ユリイカ』を観て、ここまでハードに人間の生とか、その救いだとか、映画だとか、物語とか、善く生きるとか、そこまで既成なものをバラバラにするまで壊し、自身の手で、信じられる過去の作品や、経験、感情などを手がかりに一から構築していった、その作り手たちの意志の持続される日常とはどんなものなのだろう、と思うのだ。

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102.『ユリイカ』1

青山監督がつくった映画『ユリイカ』の後半でアキヒコがバスから降ろされる。沢井真にブン殴られて「間違いだと思ったら戻ってこい、待っとってやっけぇ」と言われてバスのドアは閉まり、発進していってしまう。

このアキヒコという人物は映画のなかで、見ている我々も共有しているそのシーンの「流れ」と異質のことをいつも言う。映画はなぜこの人物をみとめたのか。でも誰もがきっとアキヒコを好き、あるいはいいヤツであると思っているだろう。私のこの「みんな…だろう」という思い込みが、『ユリイカ』のような本当らしいフィクション、リアルな物語をつくる資質のなさを表しているか。

ユリイカ』ははじめに残忍なバスジャック無差別殺人事件が起こる。そのバスの運転手が沢井真(役所広司)で、3名を残して犯人を含め皆殺しにされた、その生き残りの1人が沢井であり、あとの2人が中学生のナオキと妹で小学生のコズエ、2人は宮崎将・あおいの実の兄妹が演じている。2人は負傷した犯人に拳銃を向けられ、あと引き金ひとつ引くところで犯人が背後から警官に射殺された。

アキヒコはその兄妹の従兄で、兄妹が2人きりで暮らす丘の上の家(バスジャック事件のから両親は離散)に、大学の休みを使ってやってくる。季節はカレンダーが10月となっていた。ラジオから「カズ、ラモスを中心としてカタールで…」サッカーワールドカップアジア最終予選が、と聴こえたので、1993年の10月らしい。ちなみにこの家に、居場所のなくなった沢井もやってくる。運転手は辞めており、中学時代の後輩で建設業を営むシゲオのところで働きはじめ、この家で被害者兄妹と暮らしはじめる。

この4人で、沢井が中古で買ってきた古いバス(「別のバス」と言っていた)に乗って出かけてゆく。バスを沢井がいきなり買ってきたとき、アキヒコは部屋でアルバート・アイラーを流している。「違う場所にみなで行こう」と言って、シゲオとの会話のなかで言っていた「別のバス」を持ってきた。コズエもナオキも出てきて、アキヒコも家の前に出てくる。「これで4人で旅行に行こうぜ」と沢井が言う。

「なにバカなこと言ってんの?この子たちがバスなんか乗りたいわけないじゃない。そういう押しつけやめようよ」

「俺たちは、ここを出ていかんばといけんと」

「どうして?」

「そうした方がよかと」

青山真治の映画では、よく言葉の無力さが表れる。この沢井もそうだし、ナオキとコズエは言葉を発しない。またナオキにバスの運転を沢井が教えるシーンも、ただただ無言で体で教える。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』は言葉の力の失われた荒野から、音楽からこぼれ落ちるような雑音とかの音によって、もう一度立ち上がろう、世界を見てみようとする音楽映画、と言ってみる。

「それってアンタ一人の被害妄想で現実逃避なんじゃないの?この子たちはここで静かに暮らすのが一番なんだって、それをアンタの勝手な想像で妙な方向にもってくつもりかよ」

沢井はバスのドアを開けてみて、「今から中を住めるように改装するけん。ベッド入れて、机入れて、手伝うてくれんね?」

「ハッ、まいったね!アンタがそんな夢見がちのピーターパンだったなんて知らなかったよ。失望だねまったく。まるでどっかの変なオヤジみたいじゃん」

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101.『サッド ヴァケイション』


ことば、が、出来事である。

言語の異なる人たちにも誰にも通じる言葉は、出来事=行動である。

誰にも見えない、聴こえない、理解できない神の言葉を、受肉したイエスが生活化、出来事化したのが、御言葉、である。


『記憶する体』には、盲目の女性がなんと絵を描くことで、介助してくれるそれぞれ多くの人たちに合わせることでヘトヘトに自分を見失ったところから、自分をもう一度取り戻してゆく、という大事なことがけっこう具体的に書いてあった。

どういう流れか分からないが、青山真治の『サッド ヴァケイション』を観ていた。TSUTAYAでDVDを借りてきて、部屋でBGM的に流すかと思っていたら、やっぱり引っ張られてしまう。繰り返し毎日、部屋で再生していた。浅野忠信がホントカッコいい。青山真治の『ユリイカ』からの様々な考えを圧縮させた、ハードな映画は、熱量がこもっている。

『サッド』で感じたのは、初めに見ていたときは(10年くらい前?)とにかくすごかったが、繰り返し今見るとわりと普通に物語を語っている。そんなことより、一人一人の人物の厚みが素晴らしい。端役の人も、この人がいなくては、これは救いの物語にならない、物語からこぼれ落ちる人こそ(舞台となる間宮運送なる運送会社が借金に追われた人など明るい道を歩けない人たちを使っている)、ラストまで描かれなくてはならないからだ。

言いたかったのは、音楽の使い方。映画とはこうやって音とともに語るのだ、と初めて知ったように知った。特に序盤のさまざまな展開では、さまざまな兆しを、音楽がみせる。同じ一人の人生にも、さまざまな趣きの瞬間がたしかにあるように。

この映画には、執着がある。その先の救い、を描くためだろうか。なぜケンジはあれほど恨むのか。母を。何十年も。救いなさから、夜が明けるように救いがやってくる。物語とはそういうものか。


https://m.youtube.com/watch?v=bESYzLhu7TY


「物語をすべてなくしたところにしか、人間的なやさしさは出てこない」

中原昌也が言っていた。リクツがなくなったところから、人のやさしさ(行動=出来事=言葉)が出てくることができる。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ』はまさにそういう映画だったんじゃないか。青山真治の映画で、ミュージシャンの中原昌也が出ている。


今日、アーティゾン美術館に行ったら、モネの睡蓮の絵があった。これは、と思い、カバンに入っていた『失われた時を求めて』第8巻を開くと、今目の前にしてる絵の図版が載っていて、それを展覧会でプルーストが見て小説の睡蓮の描写の草稿を書いた、とあった。


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