日々と文学

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101.『サッド ヴァケイション』


ことば、が、出来事である。

言語の異なる人たちにも誰にも通じる言葉は、出来事=行動である。

誰にも見えない、聴こえない、理解できない神の言葉を、受肉したイエスが生活化、出来事化したのが、御言葉、である。


『記憶する体』には、盲目の女性がなんと絵を描くことで、介助してくれるそれぞれ多くの人たちに合わせることでヘトヘトに自分を見失ったところから、自分をもう一度取り戻してゆく、という大事なことがけっこう具体的に書いてあった。

どういう流れか分からないが、青山真治の『サッド ヴァケイション』を観ていた。TSUTAYAでDVDを借りてきて、部屋でBGM的に流すかと思っていたら、やっぱり引っ張られてしまう。繰り返し毎日、部屋で再生していた。浅野忠信がホントカッコいい。青山真治の『ユリイカ』からの様々な考えを圧縮させた、ハードな映画は、熱量がこもっている。

『サッド』で感じたのは、初めに見ていたときは(10年くらい前?)とにかくすごかったが、繰り返し今見るとわりと普通に物語を語っている。そんなことより、一人一人の人物の厚みが素晴らしい。端役の人も、この人がいなくては、これは救いの物語にならない、物語からこぼれ落ちる人こそ(舞台となる間宮運送なる運送会社が借金に追われた人など明るい道を歩けない人たちを使っている)、ラストまで描かれなくてはならないからだ。

言いたかったのは、音楽の使い方。映画とはこうやって音とともに語るのだ、と初めて知ったように知った。特に序盤のさまざまな展開では、さまざまな兆しを、音楽がみせる。同じ一人の人生にも、さまざまな趣きの瞬間がたしかにあるように。

この映画には、執着がある。その先の救い、を描くためだろうか。なぜケンジはあれほど恨むのか。母を。何十年も。救いなさから、夜が明けるように救いがやってくる。物語とはそういうものか。


https://m.youtube.com/watch?v=bESYzLhu7TY


「物語をすべてなくしたところにしか、人間的なやさしさは出てこない」

中原昌也が言っていた。リクツがなくなったところから、人のやさしさ(行動=出来事=言葉)が出てくることができる。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ』はまさにそういう映画だったんじゃないか。青山真治の映画で、ミュージシャンの中原昌也が出ている。


今日、アーティゾン美術館に行ったら、モネの睡蓮の絵があった。これは、と思い、カバンに入っていた『失われた時を求めて』第8巻を開くと、今目の前にしてる絵の図版が載っていて、それを展覧会でプルーストが見て小説の睡蓮の描写の草稿を書いた、とあった。


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