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(84)保坂和志は…7


昼に起きて、近所のアップルパイ屋でアップルパイを二つ買ってくる。いつも午後明るいうちに閉店していて、買えなかったのですぐに行ってきた。

昨日の夜眠れず、4時くらいまで明日はまずアップルパイ買ってこよう、と思って布団に座っていた。それと、突然セザンヌがこの考えを推し進めてくれる言葉を言っていた、内容はもちろんサント=ヴィクトワール山とそれを描くことについてだと思うのだが、まったく思い出せないばかりか、誰の何の本に書いてあったか、まったく見当がつかなかった。

セザンヌだと磯崎憲一郎かと思ったが、まさか『日本蒙昧前史』に出てきまい、明日朝になったらフツーにわかっているかも知れない。

8時になったが、やっぱりわからなかった。肌寒くて眠れない。毛布を出したいが台風から雨続きで、出す前に必ず洗濯したいができない。タオルケットで半ズボンで寝てると寒くて仕方ない。

アップルパイを食べて、溜まっていたワイシャツのアイロンがけをゆっくりと。テーブルの上に積んであった、ペドロ・コスタの映画についての講義録の本に、セザンヌがあったかも知れない。やはりあった。

「彼は自分が絵を描いていた地で本当に亡くなったのですが、雨が降り、寒さがひどかったとしても、自らの老いをかまうことなく抵抗していました。雨と寒さのなかで抗い続けたのです。彼は私たちがしなければならないことについての言葉を、感覚を残しました。彼が残したその言葉をダニエルとジャン=マリーは美しい作品のなかにおさめたのです。きっとアテネ・フランセでこの作品をご覧になることができるでしょう。こうした映画を、『セザンヌ』という映画を見られる唯一の場所だと思いますから」


そこで私は、昔紀伊国屋レーベルのリリースを注視していた十年くらい前、ダニエル・ユイレジャン=マリー・ストローブの映画が出ていたはずで、それもセザンヌについての映画だったと、思い出した。

コスタは、2001年にストローブ=ユイレについてのドキュメント映画を撮っているらしい。アマゾンにて購入。在庫あと一点。


「そこで私は手をさまよわせる。さまよう私の手は調子(トーン)や色彩、濃淡をつかもうとして、線を探す。そして突然それが石になり樹木になる。そこに厚みと質感が現われる。厚みと質感が、画布と私の感覚の上で色面やタッチとなって出現する。その時だ!私の手の震えは止まる。画面は充実して、真実を踊り出す。だが気を抜きでもすれば、疲れて頭で解釈し始めてしまう。流行りの理論が気になりはじめ、考えながら描いてしまう。こうなるとすべてが台無しだ」

聞き手が、質問する。「解釈することは無駄なことでしょうか?」

「芸術家は感覚の受信装置であり、脳という変換器だ。解釈、これを画布に紛れこませると、自分の卑小さに見合った、くだらない絵になる」


私はぼつぼつ保坂和志に、『試行錯誤に漂う』または『遠い触覚』に戻らねばならない。しかしこの迂回はなんだ。

「哲学や科学を基盤にしてオフィシャルに語られているようなものではなく、ある錯綜した語り方を通じてやっと少し描きえて、それによって本人の世界の感触は明確になるどころかいっそう錯綜する、しかしその錯綜は世界の感触から遠ざかるものではなく、錯綜ゆえに近づく」

こういう言い方をするのだ。

きっと文章、言葉での表現には、いや表現じゃなくてもいいのだろうが、私たちが知っているもの以外に、別の可能性はいっぱいある。動物はタテにも繋がっていて(DNA的に過去にも未来にも多くの個体と繋がっていて)、ヨコ(ミツバチやアリなどの集団でひとつの営みをする)に他の個体と繋がっている。

そこにさらに人間は、言葉によって繋がっているから、他者の痛みを実際自分の痛みとして、ヒユとかでなく、感じている。保坂和志が何遍も何遍も言ってきた、小説の言葉は、絵や音楽が言葉で説明できないのと同じで、同じ言葉でできていても、言語の体系が違うから…、というこのことが、はじめて、絵の具のタッチとか、吹鳴した笛へ空気を送る喉の動きと同じように、身体の動きを伴ったものとして生み出せる、そんな感覚を得た。


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