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(63)『失われた時を求めて』7巻 プルースト

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「もっとも、社交人士たちの想像上の価値や多様性についてシャルリュス氏が私の認識をいっとき誤らせたのは、氏自身がそれを見誤っていたからにほかならない。氏のそんな誤謬は、氏がなにもせず、ものを書きもしなければ絵を描くこともなく、真剣に深くつきつめた読書さえしたことがなかったせいかもしれない。」

失われた時を求めて』に出てくる数多くの登場人物のなかでも、大貴族の一族の一人、シャルリュス男爵が抜群に面白い。私は以前のブログで「ジャン=リュック・ゴダールを思い浮かべる」と書いていたが、パラメード、通称メメ、なるシャルリュスは巻を進んだ第7巻(岩波文庫)でも登場する。いよいよ主人公である「私」と急接近するのだが、その分裂しそうなアンビバレンツ(自尊心と恋慕など)を抱えた言動、さらに多方面の芸術を網羅した圧倒的な知識などから繰り出される常軌を逸した振る舞い…


青年の「私」はシャルリュスの館に呼ばれていた日、パリ随一のゲルマント公爵(シャルリュスの兄)のサロンで過ごしていた。

貴族ではない無名の青年が招待されていることがすごいが、ゲルマント夫妻にもてはやされ、どこどこの国の大公だとか実在の大物の名、家名を絡めて描かれる大御所たちの集合した、もっとも閉鎖的なこの晩餐会の模様が延々と綴られ、この後の用のために帰らせてもらおうとするも「私」は引き止められる。晩餐会が終わってから駆けつけたシャルリュスの城館にはかなり遅れて到着する、ここでゲルマントのサロンの長々した場面から抜けでた小説は、シャルリュスにて過激なパートに転調し加速してゆく。

シャルリュスの怪物的なキレ者、変態的な挙動は最高だが、この社交界におけるゴダールみたいな老練の紳士に、個人的に家に招待される、だいぶ年下の無名の青年「私」、これはプルーストと重なって、この主人公にこそ惹かれている、あるいはシャルリュスと「私」の出会いに。

プルーストは貴族でないが、こうして当時の華々しい社交界で同じような交友をたくさんもったようだ。またシャルリュスにはモデルがおり、ロベール・ド・モンテスキューなる彼の肖像は全然ゴダールじゃなくてがっくり。)


館に到着したが、シャルリュスのサロンでさんざん待たされる「私」は、彼の従僕に「今夜はお忙しいようですから、べつの日にうかがいましょう」と言ってみる。筆者である私はこの「私」の相手に合わせることのできる謙虚さというか、私にとっては素直さが、惹きつける。文章を発信しようとする、小説を書こうとする能動的なことは、実はこうした受動性をもった状態でないと、失敗する。

では、小説家は何かを呼び込むことのできる人か。従僕は、「それはいけません」と大声を上げた。さらに十分待たされて、ようやく氏のもとに通された。

「氏は身動きひとつせず、情け容赦のない目でじっと私を見つめている。私は氏のほうに歩み寄って挨拶のことばを述べたが、氏は手を差しのべず、返事もせず、椅子に座るようにと勧めもしない」

「しばらくして私は、礼儀知らずの医者にでも言うように、立ったままでいなければならないのでしょうかと訊ねた。そう言った私にはなんの悪意もなかったが、シャルリュス氏の冷ややかな怒りはいっそう昂じたように見えた」

ようやくここからシャルリュスが動きだします。

「「ルイ十四世様式の椅子に掛けたまえ」と氏は私に高飛車な口調で答えたが、それは私に座るよう勧めるというより、むしろ遠ざかるよう強いているやに聞こえた。私はそばの椅子に腰かけた。「ほほう! それがルイ十四世様式の椅子だというのか! なるほどじつに教養のある若者だ」と氏は大声で愚弄した。私は呆然自失のていで身動きもままならず、当然のごとく席を立つことも、氏の望みどおりに椅子を替えることもできなかった。」

こんなふうに小説を実況したくなる。まだここまででは直接にそうと書かれていないが、シャルリュスは同性愛者である。はじめて会った海辺のリゾート地バルベックでのことを氏は言いだす。本を「私」に届けていたのだ。

「なにに腰かけているのかさえ心得ておらん、自分の尻に総裁政府時代様式の暖炉椅子をあてがっておきながら、それがルイ十四世様式の安楽椅子のつもりでいるんだから。そのうちヴィルパリジ夫人の両膝をそれこそ便器だと想いこんで、そこでなにをしでかすか知れたもんじゃない。一事が万事この調子で、ベルゴットの本の装丁を眺めても、バルベックの教会にあるワスレナグサの楣石にさえ気づかなかった。これ以上明快に「私をお忘れなく」と伝える方法があっただろうか?」

こうしてさんざん馬鹿みたいな、完全な思い込み、被害妄想の説教でこき下ろされていた「私」は「衝動的になにかをぶん殴りたくなった私は、わずかに残った分別をはたらかせ、私よりずいぶん年上の相手は敬うほかないと考え、そんな人のまわりに置かれたドイツ製磁器もその芸術的品位ゆえに敬遠して、男爵の真新しいシルクハットに飛びかかると、それを床に叩きつけ、踏みつけ、無我夢中でばらばらに壊し、裏地をはがし、クラウンをふたつにひき裂き、わめきつづける男爵の怒声には耳を貸さず、出てゆこうと部屋を横切ってドアを開けた。」

こういう「私」である。これは男爵が愛し、社交界でも歓迎される青年を、描かずに醸成している。いや、プルーストならそこまで周到だったかな。そしてプルーストは、たとえば灰野敬二ゴダールについて「自分がわからないものをわからないというから嫌い。「私はわからないです」で終わるから嫌い。わかろうとする努力がない、と僕は感じる。「だったらやるな」と僕はいいたい」と言ったように、シャルリュスを冒頭の引用のようにまで、言うのだ。とにかく私はあの言葉がガツンときた。