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(34)「夜明け前のセレスティーノ」レイナルド・アレナス

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前回のアガンベンの著作の続きの確認のようになってしまうかも知れない。

〝潜勢力〟…「存在することができるとともに存在しないことができる」

ところが過去は変えられない、存在しなかったこと、にはならない。

いや、〝回想〟ということについて、ベンヤミンは書いています。

「回想は、完成しなかったもの(幸福)を完成したものにし、完成したもの(苦痛)を完成しなかったものにする。」

ある時間の連続を、こうだったと回想することで、その過去はそのものとしてその人にとって完成する。

また、別の人にその話をしたことで、相手がわかる話にしたことで、本人も知らなかった面相が与えられる。時間とともに、それは回想を重ねるごとに、ということだが、まったく別の出来事として完成する。

噛み砕いて言いすぎたが、それは一人一人の中で別様にあるなら、過去とは本当はなにがあったのか、まるでわからなくなりはしないか? 

アガンベンは書く。「回想は、起こったことを完成しなかったものにし、存在しなかったことを完成したものにし、それによって過去に可能性を回復する。回想は、起こったものでも、起こらなかったものでもない。回想は一つの潜勢化であり、物事がふたたび可能的なものになることである。」

バートルビーの「しないほうがいいのですが」というのは「可能性の全的な回復」だという。「これは、存在しなかったものの想起である」

実家に行って、その帰りの電車のなかで書いている。アガンベンの本も手提げに入れてきたのだ。

実家に行くとそれまでの社会性がいったんリセットされるようだ。この間恵比寿でアピチャッポン特集上映があって、三本立てを観たあと、社会学者の宮台真司が出てきてトークした。その人の映画の見方として、アピチャッポンの二部構成的な映画のつくりに言及して、都市と森、森に入ると都市での社会的な人との関係がなくなる、と言っていた。

さらに戻ると、能のところのブログで引用してきた能楽師の安田登が書いていた「日本人はリセット民族だ」ということ、夢幻能における死者の鎮魂を果たす旅人(ワキ)は、こんがらがった無意識をワケる、精神分析のようにほどいて、リセットをしている、ということ。

潜勢力という、ある固定的な状況をリセットする、「可能性の全的な回復」をすること。

中世西洋の哲人スコトゥスはこう言っている。

「意志は決定であるというより、為すことができるということと為さないことができるということ、為すことを欲するということと為さないことを欲するということ、これら二つのあいだの構成的かつ還元不可能な共属関係を経験することである」

意志はまさしく、矛盾律を免れている唯一の圏域なのである、という。

〝意志〟というものをこんなふうに捉えるのか、という驚き。東洋ではそれは意志という表現にはなってこないだろう、気がする。

でもたしかにそうだ、なにかを選択するときほど、二者が同時に存在することはない。大事なのは、二者が〝同時に〟ということ、矛盾が矛盾でなくなる、ことである。

「互いに反対物であるものがともに存在することはないが、ただ一つの行為である同一の認識行為においてともに認識される」

『夜明け前のセレスティーノ』という小説を開いた。レイナルド・アレナスというキューバの作家で、『めくるめく世界』がもっとも有名で、書店にも新刊がある、その人の本だ。

「ぼくのばあちゃんはひどく年をとってる、ベッドの下にかがんだとき、そう思った。(中略)「ぼくの十字架になにするんだ、ろくでなし!」とぼくは言うと、火のついた十字架の木っ端をつかんで持ちあげ、目玉をえぐりだそうとした。でもこのばばあとはだれも勝負にならない。ぼくが火のついた棒をとると、ばあちゃんはかまどで煮えたぎってる湯の鍋をつかんで、ぼくにかぶせかけた。のかなかったら、いまごろは赤むけになってた。「なめるんじゃないよ」とばあちゃんは言い、そのあと、焼いたサツマイモをくれた。ぼくは半分食べかけのサツマイモを手にエビスグサの茂みに行き、穴を掘って埋めた。それから乾いたエビスグサの茎で十字架を作り、死んだサツマイモのそばにそれも埋めた。」

すぐ前に書いたことを覆すようなことが書き継がれてゆく。またひとつの文のなかでさえ、「「なめるんじゃないよ」とばあちゃんは言い、そのあと、焼いたサツマイモをくれた。」とひっくり返す。

読んでいてふと聖書の『創世記』を思い出す。内容は覚えていないが、本があったので家に帰って開いた。次に『金剛般若経』(読んだことない)という仏教の教典を覗くと「『如来によって説かれた、大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ〈世界〉と言われるのです。」

こういう文が出てくる。

また『セレスティーノ』巻末のアレナスの友人の作家による寄稿に、アレナスについてこうある。

「自然との、楽園追放前の世界、アダムの時代——人間が魔法の、すなわち神の計画の一部であり、家や社会の運命によって、また老化や死といった侮辱によっても卑しめられていなかったころ——との呪わしい接触を持ちつづける人間だった」

うまくまとめることはできないが、再度アガンベンの言葉を引く。「それは一つの脱創造であり、そこでは、起こったことと起こらなかったことが、神の精神のうちで、もともとの単一性へと回復され、また、存在しないこともできたが存在したものは、存在することもできたが存在しなかったものと見分けがつかなくなる。」

これはまた違うな。でも非常に惹かれる。