日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

110.『ユリイカ』9〈幼な子〉

「復讐欲の渦巻となるよりは、円柱苦行者となるほうがましだ(わたしを固くこの柱に縛りつけなさい!)」

前回の『ツァラトゥストラ』のつづきである。前回書いた「有徳者たち」という節の終わりの方にこうある。「海」が出てくるのだ。

「母が愛児のなかにあるように、あなたがたの真の「おのれ」が行為のなかにあるようにしてほしい」というのはたしか前回ラストに書き写した。「これがあなたがたのことばであってくれ!」と。「あなたがた」には本文では傍点がふってあって、こう書き写しているとナゼだろうと思う。ニーチェは物語でなく、この本を開く「あなた」へ呼びかけをしているだ、と思いを感じる。この岩波文庫の本の紙面を通して、書き写すことを通して、1883年の40歳前の彼が書いたんだ、と。

「まことに、わたしはあなたがたから、おびただしいあなたがたのことばと、あなたがたの徳の最愛の玩具を奪った。そこであなたがたは子供たちが怒るように、わたしのことを怒っている」そして、つづく。「子供たちは海辺で遊んでいた、—そこへ波が来て、その玩具を遠くさらっていってしまった」海だ。

「だが、その同じ波がかれらに新しい玩具を持ってくるだろう。新しい、色とりどりの貝殻をかれらの足もとに撒くだろう!」

「大津波がくる」と言ってはじまった映画で大変な困難を経験したコズエは、4時間近い映画の終盤で海にたどりつき、貝がらを拾った。海のなかへ入った。「Eureka(発見)」が流れるなか。「色とりどりの貝殻を足もとに撒く」とある。映画はその後、「大観峰」の絶景をえて、映像ははじめてカラーとなる。貝がらを「お父さん!」「お母さん!」と呼んでそこから放り投げて、エンディングだった。

ツァラトゥストラ』で知りたいのは、「永劫回帰」と「ルサンチマン」だ。ルサンチマンの克服は、永劫回帰にもつながると予感する。「肯定を過剰な肯定へと発展させる」と大澤真幸は書いていた。上巻の中ほどでページの端を折ったところがあった。たぶん電車の中で読んでいたときペンがなくて折っておいたのだ。その後、ピンクの蛍光ペンで線を引いている。「いつかあなたがたはあなたがたを超えて愛さなければならない!だから、まず愛することを学びなさい!」

大澤真幸は、「後ろ向きに意志する」ということを書いていた。「永劫回帰」についてである。それがルサンチマン、過去は変えられないことの克服であるのだと。

上巻終わりから三つ目の節「救済」にてこう語られる。「すべての『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること—これこそがわたしが救済と呼びたいものだ」「『そうあった』は、すべて断片であり、謎であり、残酷な偶然である、—創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうあることを意志した!』と、言うまでは。」

また上巻の最後の節では「声なき声」がツァラトゥストラに語りかける。「幼な子になって、羞恥をすてることです。青春の誇りがまだあなたにつきまとっているのです。あなたはおそく青年となった。しかし、幼な子になろうとする者は、おのれの青春をも克服しなければなりません。」

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109.『ユリイカ』8〈ツァラトゥストラ〉

「かれらが「わたしは正しい(ゲレヒト)」と言うと、それはいつも「わたしは復讐(ゲレヒト)した」としか聞こえない!」

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、「有徳者たち」という章。私はその昔、『小説、世界の奏でる音楽』のなかで触れた「永劫回帰」思想に向かいたくて、長い時間が経って、ついに『ツァラトゥストラ』を繙いた。

きっかけは「群像」12月号、昨年のやつだが買ってあって全然読んでいないので開いた。昔読んでた大澤真幸「世界史の哲学」を覗いた。「現代篇4 永劫回帰の多義性」と副題、このシリーズはすでに古代篇、中世篇、東洋篇、近世篇とそれぞれ単行本でけっこうなボリュームで出ていて、読んでいた。

ツァラトゥストラ』のことが書かれてるが、私がそもそも永劫回帰に向かったのは、今が春を迎えているから、そしてこの大澤真幸の連載に「ニーチェが最悪なものと見なしたもの、人類が編みだしたものの中で最悪と解したものは何だったのか。ルサンチマンである。その源泉にあるのは復讐精神だ」とあったため。

敵意、嫌うこと、これは私にとってとても何とかしたい、どんな仕事より取り掛かるべきものだと思っていた。第一部、第二部が上巻。三、四部が下巻でこの最後の方に「永劫回帰」が語られると「世界史の哲学」に書いてある。やはり、はじめからずっと、ニーチェのことを好きな人っているのか?と嫌悪感。世間知らずの引きこもりの妄想みたいな大言壮語が、相当気合を込めて、文章の流れの意味つまり論理より、一個一個の言葉の意味をその度、その言葉の音から触発されて自身の腹から創り出して繋げ合わせる、そんな普通の読書と違う向き合い方(いや、本来の文章こそこうか?)が必要で、すごい日々がイライラしてくる。それでも今は放擲する時じゃない。

大地・身体・愛・友を讃え、神・頭脳・同情・隣人を非難している。とにかく他者より自分が一個で先にある感じが仏典なんかの在り方と違う。

「徳」ということをさかんに言ってる。ふたつより、ひとつの徳をもてるようにと。

「あなたがたはやはり代償を受けとるつもりなのか、あなたがた有徳者たちよ!徳に対してその報酬を、地上の生活に対して天国を、あなたがたの今日に対して永遠を受け取りたいというのか?」

信仰を否定し続けて、ここでない彼岸への奉仕とか、現世のため以外の法則みたいなものを酷い言葉で貶め続けてきた、それは普段「ご利益」みたいな言葉でイメージするあり方を蹴散らすもののようだった、今はニーチェを読んでいるから我慢だが、こんな本読み終わったらまた、自分の考えを取り戻すんだ、なんて思いながら読む。ところが、上記のような(報酬を求めるなという)ことがでてくる。

「わたしはあなたがたに、徳はそれ自体が報酬だ、というようなことさえ言わない」

「復讐、罰、報い、報復などの汚らわしい言葉にかかわるには、あなたがたはあまりにも清らかだ、ということ」

ルサンチマン、復讐を最悪とみなしているなら、上記は当然か。でも「身体、おのれ、現在において、自分のためにおいて」と相反するようだが、つなげると、「自分のために、報いは求めない」となる。

そして「あなたがたは、あなたがたの徳を愛している。母がその子を愛するように熱愛している。しかし、母がその愛に対して、代償を求めようとしたためしはあるまい」

「あなたがたの徳を熱愛する心は、だから、いわば円環の渇望だ」

そして、次の引用は「永劫回帰」思想に繋がる巨大な思想を思わせた。

「あなたがたの徳のなしとげるすべての行為は、消滅する星にひとしい。しかし、その星の光は一刻も進行をやめることなく、旅をつづけている

「母が愛児のなかにあるように、あなたがたの真の「おのれ」が行為のなかにあるようにしてほしい」


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(108)『ユリイカ』7〈海〉

小学校三年生まで湘南の団地に住んでいた。住所も「辻堂西海岸」で、少し歩けばビーチだった。左に江ノ島があった。そこに今でも年一回、あるいはもう少し少ないペースで行っている。

海の中には入らないが、江ノ島や辻堂の海岸に行きたい、とたまらなくなって行く。下北沢から小田急線で片瀬江ノ島は一本だ。江ノ島では駅の周りをビキニの水着姿で歩いている女の人がいて、ドキッとする。

見上げると、広く晴れた空。洗濯物を干すみたいにトンビが翼を広げて浮かんでいる。潮の香りが灰色の砂浜からムッと湧く。

江ノ島には何カ所か途轍もなく見晴らしのよい所があって、絵ハガキみたいな風景が開ける。私はその時の感じ、身体と広大な風景(ここでは海と空、富士山も見える)との反応について、それを知りたくて文章を書いているのではないか、と思い返す。いや、風景に身体がもっていかれるように、季節の変化に自分が分裂する感じ。

この原稿用紙の枠外の余白に「セザンヌを見る時間」とメモしてある。

私は今後も、許された時間のなかでセザンヌのサント=ヴィクトワール山の数々の絵を見てゆくだろう。「こうか!」と思いかかると逃げていくようなあの絵、あのタッチとともに、私は今後、風景を見たりするだろう。

「山の向こうに山以上の何かがあるのでなく、山がある。山を見て人が山より大いなる何かを予感したのだとしても、それはまだ汲み尽くしていない山のことだ」

私は見ることや聴くこと、嗅ぐことを通して、その対象と入れ替わることができる、と年々本気で思いはじめているようだ。感覚を通して外部と通じる。それがよりグッと親近感を伴って歓びとなるのが、つまり言語を通しているのが人間の交際の楽しみである。特に最近、大人、というか中年とかもっと上の人はそればっかにかまけている。一人で楽しむことより、他人と楽しむことは、楽しめなくても肯定できる、よしとすることができる。他者のためなのだから。

でも本当の他者は、木や、海や、空や鳥、昆虫や野良猫の方ではないか?いや、他人、人でいいのだが、それは他人であり、自分ではないことを大事にすることだ。歩いてきて海に出たこと、その海を望んで半日歩き回るのは、その人は変わる。海や空が、言語のゴチャゴチャ詰まったその人に注入され、次第に入れ替わり、海や空に満たされ、ヘタしたらそっち(海や空)の方が多くなる。風景には他者もいる、記憶もある。記憶は自身のうちにあるのでなく、この風景や、外界の方にあるということも、年々感じてきていることだ。

青山真治は映画を撮ることで考えている。日々の暮らしと、表現というか、アウトプットすることで前に、頭だけではできない展開をさせることができるかのようだ。

もう一度書いておくと映画の最初のセリフはコズエの「大津波がくる」だ。この登場人物のモノローグは何か?これを、映画を誠実に見るならば、「脚本」とクレジットされている青山真治が操作して冒頭のここに最初のセリフとして、何らかこの映画の重要なモチーフ「海」のために、ここに置いた、のでなく、北九州市の1993年の夏の小学生の田村梢という人の言葉である、とそこから考えなくてはわからない。彼女の、これは明確には言葉になっていないかも知れないが、言葉にされている。事実として。そしてそれがきっかけとなって?この4時間近い映画が幕を開けるということだ。

「何かが起こる」でなく、「津波」だった。九州という土地も大いに関わっているだろう。「やってくる」のは、「海」だった、というわけだ。「何か」というのと「海、津波」という具体性には歴然とした差がある。

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(107)『ユリイカ』6

沢井の向こうの波打際のコズエが突然、砂浜にバタンと倒れる。

あの海はどこの海なのだろう。砂浜を歩いていると岩というより地層の断面みたいな、低い断崖があった。この映画は黄色味のあるモノクロ映像で撮られている。ウィキペディアでは「モノクロ・フィルムで撮影して現像時にカラー・ポジにプリントするクロマティックB&Wという手法が採用されている」とある。

ヴェンダースベルリン・天使の詩』は、幽霊となった男がシャバの街をさまよう様子が映されている。人間界のしがらみから完全に解放された男は、同時に人間界をさまよいながら人間との関わりを失い、また肉体的な歓びも失っていて、どういう流れか忘れたが、映画のラストで再び肉体をもった人間に戻ると、それまでのモノクロ映像が色彩を取り戻しカラーになる、という話だった。

ユリイカ』でも、ラストでカラー映像になる。海のシーンが終わり、バスがどこかに着いて、寝ていたコズエが目を覚ます。そこは市街を一望する、山の頂上に滑走路みたく空に突き出た異様な景色のその地にバスは到着していた。「大観峰」と大書された石碑の立つそこは、峰の連なりの頂上で、その突端が超越的な眺望をもたらす。そこでコズエが叫び、言葉を発し、ついに風景は色彩を獲得し、「コズエ!帰ろう!」と沢井が声かける。

二人でバスに戻るところを空撮で峰を旋回するヘリコプターのカメラが捉えつづけ、鍵盤の音がしてエンドクレジットが始まる。あの場所はどういうところなのか。コズエは大きな声で、海で集めた貝がらをひとつひとつ放り投げながら、「お父さん!」「お母さん!」「アキヒコくん!」「お兄ちゃん!」「コズエ!」「沢井さん!」と叫ぶ。


波打際で倒れたコズエに沢井が駆けよって呼びかけていると、急にムクリと立ち上がって、コズエは真っすぐ海に入っていく。カメラを見据えながら、「お兄ちゃん。コズエ、海におるよ」と肉声として発したわけでない、それまでも何度かあった(兄妹によるそれはいつも海についての言葉だった)声が映画に響く。「Eureka」も流れている。

その場所はどこなのだろう。行ってみたい。北九州三部作の三作目に当たる続編『サッド』では映画の序盤、タイトルクレジットからオープニング曲としてジョニー・サンダースの「Sad Vacation」が流れながら、あの『ユリイカ』ラストの映像がカラーに変わる「大観峰」と彫られた石碑の立つ場所が映る。そこは「たいかんぼう」という熊本県阿蘇市にある山だ。またそのジョニー・サンダースの曲とともに「若戸大橋」が映る。あと平尾台というカルスト台地。この北九州市小倉にある平尾台は、『サッド』ではオダギリジョー演じるゴトウがケンジを連れてやってくる一幕があった。

「こっから山口までハワイから来たサンゴ礁なんよ」という。「そーやとしたら相当デカイね」「日本、日本ちイバリよるけど、所詮色んなところから流れついた寄せ集めみたいなもんよ」そこでオダギリジョーは山の地面に細い棒をグサ、グサと掘るように突き刺しながら、秘密を暴いてやろうと思っている、と言った。

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(106)『ユリイカ』5

コズエは海辺に来たとき、一人でどんどん砂浜を歩いていき、追いかけながらも咳込んでくずおれてしまう沢井をおいていってしまう。立ち上がって追いかけてゆく沢井の向こうで波打ち際でコズエがなにか拾っている。貝がらか。このショットもザーザー雄々しく波の音が鳴り響き、「Eureka」が流れている。「Eureka」自体も趣きの異なる音がそれぞれに鳴っているみたいだ。
浜辺で沢井の向こうの越しの波打ち際にコズエがいる。その向こうは大きな海と空だ。沢井は映画の序盤から咳き込み始め、シゲオの所の会社の健康診断では再検診の通知がきているが「そのうちね」と沢井は言っていた。『サッドヴァケイション』は『ヘルプレス』『ユリイカ』から続く北九州三部作であるが、『ユリイカ』で小学生だったコズエ(宮崎あおい)が高校を卒業したばかりの設定だったはずだから、8年後とかの話だろうか。公開は『ユリイカ』2001年、『サッド』2007年だ。
『サッド』冒頭では、シゲオが会社の研修だかで東京に来ている。宴会の途中、酔ってはいるが『ユリイカ』の時のまんまの調子で電話をかけている。「オイ、東京!」とアキヒコのことをそう呼んでいたが(『ユリイカ』)、やはり電話の相手はアキヒコで、彼の一人暮らしの部屋に押しかける。その固定カメラひとつで映しだされるアキヒコの部屋、8年後のアキヒコの容姿、そして変わらないクセのある喋り、しばらく映される2人のやりとりがとてもいい。はじめに見たときは(私は三部作は『サッド』からだったのか?)何のことかわからない会話だったが、とにかく面白い。東京で過ごした、大学後のアキヒコの時間が、とても身に迫るように、彼の部屋やルックスから表れているようなのだ。アキヒコも三部作の時間を生きている。シゲオも『ユリイカ』からの時間があった。私は、映画では言及されないが、はじめに観ていた10年くらい前の当時、青山真治自身が小説化し、中原昌也とともに第14回の三島由紀夫賞を受賞した小説版『ユリイカ』にそのエピソードがあった、シゲオは沢井の中学の野球部の一年だか後輩で、ある接戦の試合の終盤で、一年生でライトの守備に着いたシゲオがタッチアップの走者をホームで刺した、その沢井のいる野球部や、なにより少年シゲオの存在が一条の光のように差してくるのを思い出すのだ。『ユリイカ』では沢井といることが憧れの先輩と一緒にいるようにいつもシゲオは誇らしげなのだった。
『サッド』の東京のアキヒコの部屋のシーンでナオキと「文通」してるというアキヒコに、「マコちゃんは3月に死んだんよ」と言っていた。コズエが高校を出てすぐに。コズエは卒業すると行方がわからなくなった。だからお前を「コズエちゃん捜索隊」に入れてやる、と。
「それって、明日から俺も九州行くの?えー、だって忙しいもん」
「忙しい?コズエが路頭に迷うとってもええんか?」
「だって、好きで出てったんでしょ」
8年前、アルバート・アイラーを聴いていただけある?部屋にエレキギターがスタンドに立てられて置いてある。ジム・オルーク「Eureka」はまだ発表どころか制作されてもいない時の設定のはずの『ユリイカ』のバスの中で流れる。あれもアキヒコの置いていったラジカセから流れた。それはまた映画のBGMとなり海辺のシーンの最中に流れている。

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(105)『ユリイカ』4

「Eureka」が流れだしてから私は、10年前にこの映画をはじめて見ていた頃、22歳頃に、映画『ユリイカ』が先か『Eureka』が先かもうわからないが、ジム・オルーク『Eureka』をよく聴いていたことがブワッと思い出されてくる気がした。

映画の冒頭は、コズエのモノローグで「大津波がくる」と言うシーンだった。そこから朝、兄妹が学校へ行くのに家を出て、バス停でバスを待ち、バスに乗って、バスジャック事件が起こる。

あと、アキヒコが倉庫から兄妹の父親(すでに事故死している)のゴルフバッグを出してきて、退屈しのぎに(こういう所にもアキヒコの性格がでている)庭で、ゴルフクラブでブンブン素振りを始めると、ソファに仰向いて寝ていたナオキがそのブンッ、ブンッ、という風を切る音で動転する場面がある。庭に出てきて、ナイフで人の背丈ほどあるセイタカアワダチソウをめちゃめちゃに切り倒す。そのとき、ナオキのモノローグ、実際に口を動かして喋っているのではないナオキの声が映画内に聴こえてくる。「見えるか、コズエ。海じゃ。見えるか?」と。「見えるか?海じゃ」

それは兄妹の家の庭ではなかった。動転して呼吸の短くなったナオキが、次のシーンで雑草の広がる空き地にいて、セイタカアワダチソウなどに身を囲まれて横顔の頭だけが出ている戦場みたいなカットだが、青山監督はこの長い映画のひとつ、ひとつのシーンを見事に端正に撮っているが、またその雑草に隠れたナオキの向こうをバスが走り過ぎていた。

「見えるか?コズエ、海じゃ。見えるか?」「見えるか?海じゃ」

その雑草のなかでナイフをふり回すカットの前、横顔の頭だけのカットの次に、コズエが家の窓辺に立ち、呼び寄せられるようにカーテンを開く。「見えるか?」とこの時ナオキの声がし、コズエはつまりナオキのモノローグに呼応するように家の窓から外を見ている。少し開けた窓ガラスに雑草の広がりが映っている。そこにも、またナイフをふり回すナオキの周りにも雑草や遠くに山が見えるが、海はない。切られたセイタカアワダチソウの断面から、血のように白い泡が流れでてくる。このナイフでナオキは少なくとも4、5人の女性を刺し、沢井の手のひらをキズつけたのだろう。沢井の手は、沢井が自分から、夜、バス旅行の日々のなか殺人を繰り返していたナオキを見つけ、その握られたナイフの刃をつかんだのだ。その夜、また女性を襲うすんでのところで沢井に発見された。

ユリイカ」とはギリシャ語で「発見」という意味の言葉だ。いや、「感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシヤの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされることである(Wikipedia)」とのこと。

たしか、以前ジム・オルークの先述のCDアルバム『Eureka(ユリイカ)』に触発されて青山監督がこの映画のタイトルを名付けたと何かで聞いた。そして終盤、コズエと2人になった沢井のバスで、『Eureka』収録の7曲目「Eureka」が流れる。コズエが海に入っていき、『大人は判ってくれない』みたいに海の中でカメラを見据える。そこで「お兄ちゃん、見える?コズエ、海におるよ」とやはりそこで喋っているわけではないコズエの声が言う。この時も「Eureka」が流れていて、高校の放課後に吹奏楽部の練習が聴こえるみたいな、複数のラッパたちが鳴らすめいめいの音が漂うようななか、キーボードなのか何なのかの音がベースラインのような、ラッパの雄大な感じの音とそぐわない音をつづけている。またちょっと鳥の鳴き声に似ている電子音がメロディとは無縁な感じで無作為に鳴っている。そういう曲のなか、海の波の音が激しくうなっている。デザインされた音楽としての、ひとつの方向性みたいなものがない感じ、違った音たちが互いにかき消したり干渉したりせずに勝手に同期してるのが心地いいが、『ユリイカ』にとってこのシーンは何か?兄妹にとってこの海はなにか?

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(104)『ユリイカ』3

本当に見ていて胸に迫る、つらい別れの場面がある。国生さゆり演じる妻・弓子と沢井の別れだ。高層階の川とか海?港町?の望めるレストランで、国生さゆりがすごいいいのだが、バスジャック事件から沢井は一人放浪していて帰ってきたら弓子は家を出ていた。今は「男の人と暮らしとる」と言う。

「マコちゃん、私とやり直そうとは思わんかった?」と別れ際きく。

「やり直そうと思おて、帰ってきたばってん…」

「遅かったね」そう言う国生さゆり。何年かわからないけど一緒にすごした2人の時間はそうそう覆らず、おそらく誰より互いに深くつながっていたと言えるところはある、それがたとえば2人の始まりの時にそうであったように、終わりのここで、身体の芯まで大切な相手で満たされそれが途切れてしまうつらさ。沢井が唐突に言う。

「他人のためだけに生きるっちゅうことは、できるとやろか…」

こういうセリフを書かずにはいられなかった人。その人の状況というか、この問いを、これだけの大作をつくる年月の間維持しえること、そしてここに映画ができていることに強い関心がある。日常のなかで、日常を暮らし、私もこの映画やこの映画の登場人物たちみたく深くこの世界の何かとつながっていたい、と思っているのだ。

アキヒコがナオキのことを「一生刑務所か病院なんだろうか。かわいそうだけど、やっぱり一線を越えたヤツは隔離しないといけないんだろうなぁ。でもアイツもそれが幸せなのかも知れないよね?」と言ったら、沢井がバスを止め、アキヒコに「降りれ」とバスから降ろさせた。アキヒコの荷物を投げつけ、顔をブン殴り、「なんが幸せか!そげんもんが幸せでたまるか!ナオキがどこにおってもよかと。いつかナオキが帰ってきて、失くしたもんば取り戻すと!その時お前みたもんが、ナオキの邪魔をしやろ!まっぴらオレは死んでもナオキを、守ってみせけんなぁ!それを忘れんことしとけ!」と言って、「もし間違いだと思ったら戻ってこい!待っとってやっけぇ」とバスに乗って走っていってしまう。

そのアキヒコの座っていた助手席のダッシュボードにラジカセが残っていて、「悪いことしたなぁ」と言ってすでに走り出していたバスを運転していた沢井がそれを手にとり、再生ボタンを押した。カメラはダッシュボードの上のラジカセを捉え、ジム・オルークの「Eureka」が流れだす。アルバム『Eureka』が出たのが1999年だから、映画の中の1993年10月にはまだ作られてないが、ラジカセごしに海へ向かう道をゆくバスのフロントガラスからの眺めがその曲とともに映されている。

海へ向かう道の風景に、それまでの3時間の劇映画の流れからちょっと浮いたカンジで、「Eureka」が曲のはじまりから流れる。このまま映画はコズエと2人で海岸にきて、バスを降りて海辺に2人がやってくる。コズエは海の中に入ってきて、トリュフォー大人は判ってくれない』と同様に、海の中のコズエがカメラを見つめる。そのあいだも、ジム・オルークの「Eureka」がずっと流れている。

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