日々と文学

読書ブログ、映画ブログ

151 『やさしい女』ブレッソン


この日は、朝から集中力もなく、そう、昨夜から唇が炎症していてよく眠れなかった。皮膚科でもらった保護する軟膏を塗るが、ヒリヒリと皮がなくなったズルムケ状態で、何度か起きて塗ったが改善しなかった。ステロイドの入った軟膏もあるのだが、これを塗ると私は魚の目みたいな巨大なニキビが唇の周りに必ずボコボコできるから、ダメだ。

それで、ご飯も食べられないが、きちんと食べようと思い、自炊はやめてパン屋でパンを買ってきた。これもロールパンなどにしておいて、つまりソースとか、塩とかベチャベチャ付いてしまわないものを選んだが、口を開くだけで外皮の失われた唇から膿汁が出てくる。

イテー、イテーいいながら済ませ、渋谷へ。13:20からヒューマントラストシネマでロベール・ブレッソンの『やさしい女』を。ドストエフスキー原作で、ドストエフスキー生誕200年とのこと。映画は1969年の作。やっぱり素晴らしい。夫が痛ましい。妻もどうにもできない。

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見終わると、そのまま渋谷を後に。二子玉川まで行き、高島屋靴屋に。もう何度も見にきているインドネシアの革靴。今日は買おうと思っていたが、まだその気にならない。やっぱり帰ることに。喫茶店で読書にしようかと思ったが(そのつもりで本は持参)、夜に時間ができすぎると恐れ、帰宅。熱いスープを作って食べた。ワイシャツのアイロンがけをし、今度こそ恐れずに駅前の喫茶店へ。「影裏」を。思い入れの深い作品。何度か読んでいるので、ぐいぐいと大胆に読み進めた。こういう読み方も大掴みができて大事だと思った。特に私は読書が遅すぎで、すぐに読まなくなってしまうから。

19時すぎに喫茶店を出て、ミスドへ。それからカルディでココアの粉末を買い、ツタヤで念のため映画『影裏』を。こちらも何度も見ているが、借りておく。そうして帰宅し、ドーナツを食べて、ブログを。冬が近づいている。月食。日暮れはもうとても早くて、夜は長い。もののあはれ

ビー・ガンのBOXもあるし、充実の晩秋。


前にも書いたかも知れない。ユーチューブの動画で中原昌也さんが言っていた。物語の嘘臭さを言っていたと思うが、あらゆる物語を退けていったところにしか、本当の人間的なやさしさはない、と。これを度々思いだす。それは、まさに『影裏』の、主人公が行方不明となった日浅という男のことを思い、そして行動する、あれのことだと思った。どういう思いでとか、まして何々のためとかでなく、あの場面こそ、それが表現されているのだ、と思う。

150 イスラエル博物館所蔵展


大手町へ。東京駅まで歩き、先輩と合流。

三菱一号館美術館イスラエル博物館所蔵展があり、そこまで歩く。ステキな通りで、ウェディングドレスの女性とタキシードの男性が、カメラマンに写真撮影されていた。とても楽しそう。街はすこしずつ、クリスマス装飾、ムードが漂い始めている。風もなく、スッキリした秋の天気で、空気が爽やかでサンポに気持ちよい。イチョウが黄葉している。

イスラエル博物館所蔵展は印象派からポスト印象派までかなりあった。

私はセザンヌが好きである。

コローが最初にあり、それは先輩が好きな画家だ。子供の頃の記憶の風景のような、写実的だがなぜそれが子供目線に遡るようなのかは、わからない。

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あと、ゴーギャンが私は好きだ。ゴッホも少しあり、こんな爽やかな作品も。

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モネやルノワールなどもけっこうあった。印象派を代表する画家の作品たちである。見ている人たちもキレイだ、とか、睡蓮なら崇高な感じだ、とかピサロなどもその光景から人が美しいと感じ、たとえば今ならスマホで写真を撮るならそこを強調したいと思う、光に輝く自然や、秋の紅葉の色のビビッドさ、自然の色彩のくっきりした響き合いなど、そこをもろに絵にしてくれている。見やすく、点描や細かなタッチが画面全体の風景をなすのもたとえば光景は光によってできている、とか、木も人も背景の空も草間彌生の水玉じゃないけどみんな同じ原子からできているから境界はなく、点描で混ざり合うとか、そんなこともわかりやすい。

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ピサロの『豊作』

また、対象に向かうなら画家の主観は出さないことというもっともな話もある。が、印象派はやっぱりそこまで面白くない。いや、それがあったから絵画はどんどん面白くなった、その転機とすれば非常に面白いが、これは良くできた、科学などとマッチした、なにかノリに乗っている。そこから、より独自の表現を見出したり、打ち破ったりした後期印象派とかポスト印象派と呼ばれるセザンヌゴッホゴーギャンなどのノリの悪さ、もはや理論とか言葉が付いていかない、糸の切れた凧の行く末、でもそこからたしかに芸術はよりイデオロギーとか正統性みたいなものから自由になったのでは。

でも私もこんなわかったようなことを言っていても面白くもない。私が社会性が希薄なのは、前提とか昨日までの知識とか考えとかを、ゼロにすることを求めているからだろうか。夕方から雨が降ってきて、頭が重くぐったりしています。

149 ささやかさと真実


私が高校生のころ、と言っても三年の夏まではほとんど野球部のみでいっぱいだったから、引退したそれ以降だと思うが、急激に芸術に引き寄せられていく。今でも仕事の時は嵌めているセイコーの腕時計を、野球部引退祝いみたいなかたちで父親にその時買ってもらい、それを嵌めて、町田駅辺りを放浪していた。

中島らもさんのエッセイで、たまには公園で野宿するのがよい、とあり、それもしたりした。公園で谷崎潤一郎痴人の愛』を読んでいたら、カリスマホームレスと自称する、40歳前後の大きなサングラスをかけたスキニーボトムの男が声をかけてきてベンチの隣に座ってきた。

タバコをせがまれ、渡した。それから何度か会うようになった。そこである夜、小さい公園を囲むベンチのひとつに、カリスマの顔見知りのこれも40前後に見えたが、男が座っていた。夜闇の中、外灯の明かりを頼りに、顔にすごい近さで本を読んでいる。カリスマが言うに、アイツもホームレスで、聖書を読んでるんだ、とのこと。

その姿をよく覚えている。それから思い出すたび、現実に生きているのに現実を見ないようにしている悲しい人だ、なんて思っていたが、ふと、本当に聖書にすがっていたのではないか、と思った。人にどう思われようと、キリスト者を実践せずにはいられなかった、そういう切実さだったのかも知れない、と。

それはわからないし、どっちでもあまり変わらないのかも知れないが、イエスは本当にいて、イエスほどのカリスマじゃないが、共鳴する人たちは、それこそキリスト教に関係なく世界にいて、アウグスティヌスのような人や、まったく名が残らないどころか、誰にも知られない人もいる、そっちの方が多くいて、聖書や先人の教えなどを頼りに、なにかを社会通念や常識より強く、求めずには、信じずにはいられなかった。それがかろうじて、もしかしたらこの世界の目に見えるもの、現在の社会のあり方の、その外の可能性の火を消していないのかも知れない。

実家の、いつも母の寝ている、もと弟の部屋だったはずのベッドより。

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どんなささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなれば働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ

148 タリーズでアウグスティヌス


モツ鍋を食べさせてやると親父の招待があり、実家へ。その電車の中で、アウグスティヌス『告白』を。

「それゆえ、現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら、わたしたちはどうしてそれの存在する原因がそれの存在しないことにあるものを存在するということができるであろうか。すなわち時間はただそれが存在しなくなるというゆえにのみ存在するといって間違いないのではなかろうか」

久しぶりに『告白』。いつも飽きるが、やっぱり読みたくなる。やっぱりこれだ!と胸がアツくなる。さすがに上の箇所を読んだときは電車の中で笑った。こうしてひとつひとつ、人間が認知できないもの、へ近づいてゆく問いを発してゆく、それが思考を前へ進め、何かに近づいていくようなものものしさ、迫力、高揚が、この下巻の中盤まできて漂っている。

実家に行ったらまだ親が帰って来ていなかった。姉もいなくて、仕方なく駅へ引き返した。高校の前を通り、野球部を頑張っていたことを思い出す。あんまりいい思い出もなかったけど、体力は100倍あった、と思った。

駅前の気になっていた喫茶店は閉まっていて、歩いていてふと思い出した、高校三年で部活を引退してのち、美大に行きたい、と仕事帰りの親父と会って話した渋い喫茶店があったことを思い出した。今まで思い出したことのなかった記憶。そこも閉まっていて、駅反対側のタリーズへ。本日二度目の喫茶店で金かかるが、チャイミルクティーうまし。『告白』面白い。

というか、この後に続く時間についての考察がものすごく面白い、考えてゆくほど時間は捉えることができないことになる。で、そこでアウグスティヌスは「百年前を長い過去の時とよび」と語るのだが、アウグスティヌスは西暦354〜430年の人だ。その時の人にとっての百年がここでたとえとして出される。アウグスティヌスはその1600年後に、日本の青年がタリーズでこの本を読んでいるなんて、想像しようにもできないだろう。ティヌスなら、できそうな気がしてくるが…、そこにグッときた。

そろそろ時間だから、このリラックスできたティータイムは切り上げ店を出ましょう。アウグスティヌス、かっこいい。かっこわるいかも知れないが、信じるってことの凄さ、が私にもなんとなくそばに感じられる。


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で、翌朝自宅に帰ったら、↑ビー・ガンのブルーレイBOXが届いていた。ヤッホー。

147 沼田真佑「廃屋の眺め」


新宿から帰るとき、新宿三丁目から副都心線に乗ろうとすると、ホームにすごい人だかりができていて、アナウンスでダイヤが大きく乱れているとのこと。東急線で発生した車両点検が影響らしい。夕方で、帰宅ラッシュの時間帯に差し掛かっていた。

渋谷まで行ければいいから、私は来た道を戻り、新宿通りの真下の地下通路を通ってJR新宿駅へ。山手線で渋谷へ。それから田園都市線は動いててホッとし、そのまま自宅駅へ。ミスドでドーナツを二つ買って、帰った。

ミスド食べて、カレー食べて沼田真佑『影裏』文春文庫所収の「廃屋の眺め」を読んでいたらこれぞ小説の面白さ!と思いだす。

語り手の、社会における身の置き方の微妙さが好きだ。50歳で非正規雇用ばかりを転々し、実家暮らし。でもそれを物語化しない。恥ずかしそうにたまに言い及ぶが、核心はそこじゃなく、そういう人の見ている世界または世界との関わり。そして、その語り手による周りの結婚ラッシュの話から小説がはじまる、この意表をつくところ。

「わたしはたいていは新郎か新婦のどちらかの、元職場の元先輩という、消え消えなラインをよすがに招待される身の上だから、式場では通例一人で、ロビーの窓辺に突っ立っていたり隅のソファに腰かけたりして、傍目にはさだめし陰気な男に映るだろうが、さにあらず。そのじつ非日常の雰囲気に浮かれ、胸躍らせているのである」

芥川賞受賞の「影裏」も、なんの説明もなく後半で30歳くらいの男の主人公が、元カレに会うという場面があり、え?え?となる。文庫所収「陶片」では、姉の前夫はスコポフィリアで、と述べられたり、こうしたマイノリティが自然に語られる、それでいて怪奇とか幻想とかでなく、視覚的な描写の卓越した瑞々しい小説でもある。

早く新刊が読んでみたい。

で、昨日の新宿ディスコユニオンが呼び水となり、今日も買い物。蔦屋書店で太宰治『グッド・バイ』。にわかに日本の近代文学に触手が。太宰は関心なかったが、バストリオの今野裕一郎さんがラジオで「グッド・バイ」を語っていて、自分こそ偏見たっぷりだったと思って。あとは、この間ブログでも述べたが、磯崎憲一郎金井美恵子中原昌也の鼎談の動画がよかったのだ。そこで文庫本についてのトークだったが、述べられていた宇野浩二「蔵の中」など読みたくなったが、床屋終わりで日が暮れてて、渋谷に出るのは断念。大江健三郎、あとは庄野潤三を今度買ってみたい!

と思いつつ、喫茶店で読書。相変わらず数ページしか進まぬが、家以外で、金使って油売っていなければ、いいことも起こらない、と。

寂聴さんが亡くなった。寂聴さんのその名は「森羅万象から出る音を、心をしずめて聴く」という意味の「出離者は寂なるか梵音を聴く」の言葉にちなんでいる、とのこと。これは前回だか前々回だかで書いた、保坂さんトークで言われた、ささやかさを感じること。

どんなささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなれば働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ


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146 スウィート・シング


一人の生、ひとつひとつの命は海面に落ちる雨粒である。これを昨日、保坂さんが何度か繰り返し言っていて、それも、これ以上説明せよと言われてもできないばかりが、だからどうだと自分でもそういうのはない、と言った。ただそのイメージだけがあって、ならばそこから考えをはじめなければならぬ、と。

今日は仕事で久しぶりに一日現場に立った。晴れてて暖かい日だった。素晴らしい陽気、そんなことはどうでもいいが。家に帰ってヤキソバを作った。これを食い、暗ーい部屋でテレビを映しながら、ユーチューブで金井美恵子磯崎憲一郎中原昌也の鼎談を見たら、見事にかっこいい、面白い。ずっと流して聴きながら、小島信夫『私の作家遍歴Ⅲ』。お三方の話を聞いていると、やっぱりまったく自分は文学読んでないと思った。その鼎談の話からの『私の作家遍歴』は繋がってる感じがしていい。今はその140ページくらいだが、いったい小島信夫はここまで書きながら何冊の本を読んだのだろう。保坂さんが小島信夫の思考を「太い」と表現していたと思うが、重なり合う作品が、同時代の古典が世界のあちこちで、小島信夫によって抽出され、読み込まれ、たまたま本のしおりにしていた絵葉書の画家や、あれこれがもつれ合って矛盾の虹を掛けているようだ。

今度はシャミッソーとかいうフランス作家の『影を売った男』の引用やら話になっていて、なんのことやら、と思いつつも、「いったい「影」とは、二つの国にまたがって生涯を送らねばならなかったシャミッソーの何に当たるのだろうか」なんて文章でああそうだったのだ、と論旨の方向性を思い直したりもする。

明日早いから、もう寝よう。


また次の休日に、土曜の保坂さんトークで「仏教は愛着を否定している」とたしか言っていた、とジョギングしていて思い出し、大好きなサミットのメロンパンを買って部屋に戻ると、MacBookを開いてもう一度再生した。愛猫が死んだあと「ブッダのことば」を読んでいたらはじめの方で悪魔がブッダにささやく、あの女神に会えば深く愛することができる(曖昧な覚え)ぞ、と。ところがブッダは愛することは別れのつらさになるから、愛さないと答える、それが保坂さんは嫌なやつだなぁと感じたという。なるほど。愛着(あいじゃく)、執着(しゅうじゃく)、愛することは仏教では否定されているのだと。この言いようは保坂さんらしい。というか、私は今まさに同じことを考えていたと思う。それをこの一年間の恋で、考えたことなのだと思った。その自然な気持ちを見ないようにするのは、なんのためだ?という。

新宿に行き、シネマカリテで『スウィート・シング』という映画を観た。それからイセタンでワイシャツを覗き、紀伊國屋に向かうところで新装されてから行っていなかった新宿通りのディスクユニオンに。中に入ると、音楽好きな人たちが夢中でCDを探していて、壁一面CDやレコード。棚の上の壁面には名盤ジャケットが並んでいて、こんな素晴らしい空間!とにわかにハッピーな気持ちになった。昔聴いていて、ちょっと前に思い出して聴きたくなったがもう売ってしまって無かった Dub TAyloR『LuMiERE』を見つけた。これと、Arthur Russellの未完作品デモ音源集を購入。Arthurはほとんど未完とか未発表ばかりで、それがたくさんあり、近年でもリリースがある。ホントに大好きな音楽です。

紀伊國屋に行き、ホーソーン『緋文字』と沼田真佑『影裏』を買った。暖かい日だ。


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144 【配信版】小説的思考塾vol.5

野間文芸新人賞になった井戸川射子『ここはとても速い川』を読んでいる。以前は巣鴨だったかの会場でやっていて私も行ったことのある、保坂和志さんの「小説的思考塾」というトークイベントの配信版をこの度久方ぶりに視聴した。ライヴで、休日だった土曜の17時から自宅のMacBookで。そこでこの『ここはとても速い川』が触れられた。保坂さんが選考委員をしている野間文芸新人賞で、選考会でこの本のいいところを語っていたら泣いてしまったという。この本は、小学生が児童養護施設にいて、そこでみんなで暮らしている。そこから学校に通っている。親はみんないなくて、先生たちがいて、夜もみんな共同生活だ。私は両親がいてその家で家族で暮らしてきた。友達の家に泊まったりはしていたけど、そこで暮らしてはいない。男女がいて、リビングに大きなテレビがあるという。そこでユーチューブをみんなで見る。「ユーチューブは危険やから、先生が付いてる時しか見られへん」耳かきの音のやつをみんなで見て笑っている。「それはみんなで笑ってもうた。女子たちはメモ帳交換しながら見とった」ここを読んでいて、なぜかぐっと胸に迫った。小学生の頃、たしかに女子は交換ノートとか手紙のやりとりしてた。男子は騒いだりしてた。そうか、子供の頃こそ男女はビビットに違う存在だった、と。私はそこで少し寂しくなった。特に男子らしくなく、かと言ってなにか変わった個性的なことをしていたということもない。保坂さんはめちゃめちゃ人気者でお調子者で面白い人だったから子供時代のこんな小説は楽しいだろう。私も楽しいが、寂しいなぁ。ちっぽけさを改めて念押される。

銭湯行きたいが、土曜は休みだ。薬局でお気に入りのシャンプー買ってきたぞ。暖かい晩秋だ。上野公園は秋日和だったぞ。ずっと恋する人を考えて一人で歩いていた。どうしてこんなにもこんなにも想ってしまうのか。もっとサッパリした性格になりたい。重たくて、辛気臭くて、友達も少ない。一目置かれたりすることはさらにないなぁ。でも無力であることは、小さくあることは、力が弱いことは、感受性になる。

どんなささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなれば働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ

これは本日の思考塾の資料とされていた文章で、保坂さん短編「夜明けまでの夜」からの引用だ。この引用を意識してたわけじゃないのにいい繋がり方をした笑。そもそもなんでこんなに保坂さんが好きなんだろう。おれと全然まるきり違うのに。明日も早いので、プリン買ってきて、風呂入って寝よう。リモートだしそんなに集中して視聴してたわけじゃないのだが、保坂さんの喋り=思考を聞いているとたしかにこっちにも開いてくる部分があって、この感じで明日からやっていきたい、なんて思うのだ。

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